映画のむかし~サイレント映画と活弁~
(2012年9月27日)
「生演奏で楽しむ映画の醍醐味『かつべん』」10月13日(土)/高崎市文化会館
【第1回の続き】
第2回は映画の歴史を紐解いてみましょう。映画の始まりは、古代に描かれた8本足の牛の壁画だともされていますが、ここでは、日本におけるサイレント映画と活弁を中心にご説明したいと思います。
実質的な映画の誕生は、1891年にエジソンがキネトスコープを発明したことに遡ります。それ以前にも写し絵やゾーエトロープと呼ばれる光や残像を駆使し、ものが動いて見える仕組みがありましたが、本格的に動いているものを記録できたのはこの発明によります。当初エジソンは、蓄音機の発明を視覚にも応用できないかということでキネトスコープを作りました。そのため、映像の記録に重点が置かれ、同時に音声を付けることは考えていなかったそうです。その上、キネトスコープは覗き穴から見る箱型の1人用のものでした。
それを現在の映画の形に近づけたのが、リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフです。現在の「シネマ」の語源にあたるもので、これにより大型のスクリーンに映像を映し出す事が可能になり、大勢の人が一度に映画を楽しめるようになりました。しかしこれにも音が付けられたものは無く、トーキー映画が登場するまでのおよそ30年間は無声の映画が一般的でした。
「チャップリンの冒険」
こうした中で日本独自の方法での映画の楽しみ方が生まれました。それが活弁です。シネマトグラフや、その後に登場したヴァイタスコープの上映の仕組みや機械の説明が初期の活弁士の役割でした。のちに名活弁士として有名になった駒田好洋もその1人ですが、彼はもともとは「広め屋」という、現在の広告代理店の仕事を生業としていました。「映画」を世に広めるべく、シネマトグラフ片手に全国巡業の日々。高崎にも巡業に来たようです。巡業の際には、燕尾服にシルクハットを被り、音楽隊のパレードによる派手な演出で映画を宣伝したそうですが、巧みな言葉遣いが高じて映画の内容を説明する弁士として活躍するようになりました。
映画の内容も当初は単純な動作を映すだけであったものが、徐々に誰もが知っている話を題材にしたものを作るようになり、さらにそれがよりオリジナリティのある作品へと変わっていきました。そのため、弁士の説明が映画を楽しむためのツールとして必要不可欠なものになりました。併せて、日本では1903年、世界的にみてもかなり早い段階で映画の常設館が誕生し(第1号は浅草の「電気館」)、活弁士の需要は高まっていきました。
「椿姫」
しかし、1920年代後半に登場した有声のトーキー映画により活弁士の仕事の場は失われていきました。トーキー映画が出始めたころは「音声のないものこそ映画である」と考える人も少なくなく、反発などもあったそうですが、時代の波にのまれる形で活弁士は姿を消しました。それでも日本で独自に生まれた活弁は世界的に見ても面白い手法であったといえるでしょう。
その後、映画は1940年代には戦争と強く結びつき、プロパガンダとして多く用いられるようになりました。終戦を迎え50年代になると、日本はアメリカに次ぐ映画大国となり、数多くの娯楽作品を生み出しました。そして、70年代の日活ロマンポルノ、80年代のミニシアターブーム、ジャパニメーションの世界進出などにより、映画が日本の文化史を作る1要素となりました。活弁からスタートした日本独自の映画の楽しみ方は、その時代時代に合わせて様々な方向へと広がりをみせていったのです。こうした歴史を持つ日本映画が今後どのように発展していくのか楽しみですね。
(高崎映画祭スタッフ 熊倉史子)