魅力ある都市に向けて/高崎青年会議所フォーラム

(2009年9月)

 高崎青年会議所は、9月11日に高崎シティギャラリーコアホールで、音楽のあるまち高崎をテーマに、まちづくりフォーラム「魅力的ある都市に向けて」を開催した。


 講演は、元群響楽団員のピアニスト風岡裕子さん、故井上房一郎氏から薫陶を受けた群馬県立女子大学副センター長の熊倉浩靖さん。対談は元ミューザ川崎総支配人の田中則之さんと高崎青年会議所の大沢博史理事長。風岡さんは、講演の中でピアノ演奏を行い、来場者を楽しませた。


大沢理事長は「群馬交響楽団、群馬音楽センターをまちづくりの中で生かしていくべきだと考え、これからのまちづくりを提起していきたい」とあいさつした。


魅力ある都市に向けて/高崎青年会議所フォーラム

●群響が育ったから「音楽のあるまち高崎」になった/風岡裕子

 空襲で全てを失ってしまって、家も着る物も無く、それでも音楽をやりたくて、プロのオーケストラができるということで高崎に来ました。


 高崎は商人のまち、価値観はどれだけお店が繁盛しているかです。音楽のあるまち高崎、最近、町を歩いていると目にします。いつの間に高崎は音楽のまちになったのでしょうか。当時はチンドン屋でも音楽はタダだと言われ、音楽は全然認められませんでした。音楽不要のまち高崎であったと私は思っていました。


 群響が育ったから「音楽のあるまち高崎」になったのです。その群響も苦労が多く大変でした。その頃の群響はプロの楽団員は数人です。仕事を終えて、練習場で初めて譜面を見て、楽しみながら練習するのがアマチュアです。プロは自分で練習をしてきて、そこで合わせて一つの音楽をつくるのです。ですから楽員同士の問題も起きました。


 私はピアノで、足りない楽器のパートを全て弾きました。ピアノの通称下駄箱、何の音でも全部入れるからです。


 群響が一番人数が少ない時は八人でした。私は辞めるつもりはなく、このオーケストラをなんとかしたいという気持ちだけでした。そう言うと美しい話に聞こえますが、ただそう思っていただけです。


 高崎青年会議所の方が定期演奏会でダルマの格好をして、みんなで群響を盛んにしましょうと言ってくださったり、森とオーケストラも計画してくれ、今でも続いています。そういう方々の力をありがたく感じています。


 若くて優秀な演奏家が入ってきて、群響に実力がついてきたと思います。定期演奏会のお客様も多くなってきたようです。地域のために工夫して、市民、県民と密接な関係を持て欲しいと思います。


魅力ある都市に向けて/高崎青年会議所フォーラム

●井上房一郎翁が描いた高崎の都市文化/熊倉浩靖

 井上房一郎翁は、1898年、当時まだ新町(あらまち)と呼ばれていた八島町に生まれました。高崎が市制を施いたのが1900年ですから、井上翁は高崎とともに歩んできたと言えます。井上翁は高崎の観音様で知られる井上保三郎翁の長男として、このまちにうまれました。1868年、明治元年に生まれた保三郎翁が近代高崎の第一世代を代表するとすれば、房一郎翁は第二世代を代表する人物です。ほぼ同世代に蝋山、山田、小山という蝋山家の三兄弟、小島、久保田、住谷という高崎市長もいました。土屋文明、村上鬼城もほとんど同じ世代に属しています。


 その第二世代の高崎人が私達に何を残してくれたのかを、私達に伝えてくれるのが井上房一郎翁に一生だったと思います。


 井上翁は六歳の時にお母さんを亡くします。九十歳を過ぎ、高崎を代表する人物であった井上翁が、ポツンと漏らしました。「僕はかわいそうな子だったんだよ。お父っさんは仕事ばかりしているしおっ母さんは死んでしまったし。だから僕の気持ちは外へ向いた。当時の世界標準である、ヨーロッパの市民社会の在り方や文化や暮らし方を自分のまちに根ざさなければいけないということを若い時に学んだ。それを体得するためにフランスに渡った」。


 フランスで画家をめざしましたが、「自分はピカソやセザンヌを超える画家になれないことがわかった」と、一枚一枚絵を描くように、日本に世界標準の文化、市民社会を築いていくことを決意したのです。


 戦後、敗戦を乗り越えて平和で文化的で民主的な国民として、世界から評価されるためには、それにふさわしい言葉やしぐさを身につけなければならない。それは音楽だと生み出されたのが高崎市民オーケストラです。高崎市民オーケストラは、既にある程度の基盤があった。高崎のまちにはアマチュアとプロフェッショナルとプロデューサーが集まれる恵まれた立地性とが、偶然にもあったかもしれません。戦前から高崎がつくってきた経済的、文化的高まりの上に、敗戦から立ち直り、平和で民主的で文化的な市民に自分たちがなろうとする時に、具体的な形として井上翁が働きかけたのが高崎市民オーケストラ、後の群馬交響楽団だったと私は感じています。


 まちの皆さんが、本当に支えよう、まちの宝だと思っていたかと言えば、おそらくそうではなかったでしょう。そのため井上翁個人の支えが少なくありませんでした。音楽センターができ、市長に理事長になってもらうことになった。その時、2千万円を群響に費やしていました。今の価値にすれば二億、二十億円に近いかもしれません。それはパトロンとしてではなく、市民の活動としてなんとかしていこうと考えていたことに、私達は学ばなくてはなりません。


 井上翁が群響の次のステップのために提案したのが群馬音楽センターです。ヨーロッパならまちには一つのオーケストラとコンサートホールを持っている。それが世界標準なんだ、そういう市民社会を日本でもつくろうではないか。まず自分のまちからやっていこう。それが群馬音楽センターの建設運動の基盤でした。音楽センターをホームグラウンドに市民が群響とともに育っていく。


 最も重要なことは群響とともに私達高崎市民が育ち、高崎市という都市が育ったのです。そのシンボリックな建物こそ群馬音楽センターです。群馬音楽センターは、世界中から各国を代表する建物を選ぶDOCOMOMO二十選に、日本の二十の建物の中の一つに選ばれました。アントニン・レーモンドという優れた建築家の作品であるからだけではありません。それを作るために市民が運動をし、お金を集め、市民によって支えられているオーケストラのホームグラウンドとして作ったから意味があるのです。それが世界が認めた音楽センターの価値です。その魂を私達は、けっして忘れてはならないのだろうと思います。いやむしろ、その魂を磨き上げていくことに、私達が井上翁から受け継がなければならない、大切な問題があるように思います。  音楽センターができたあと、井上翁は、日本画を中心に自分の集めた二百三十点のコレクションを寄贈し、また山口薫先生や豊田一男先生を始め多くの方に作品を県民のために寄贈してほしいとお願いし、群馬県立近代美術館をつくりました。設計に若き建築家の磯崎新氏を登用されました。そして磯崎氏は、近代美術館によって、世界の磯崎になっていきました。


 タウトとの工芸運動、群響と音楽センター、近代美術館、そして四枚目の絵が高崎哲学堂でした。残念ながら哲学堂という建物を新たに作ることはできませんでした。井上翁が亡くなられた後、公売にかけられた井上邸を市民の浄財をあしがかかりにして守り、高崎哲学堂と名付けました。そして今、高崎市の全市民によって、井上邸が高崎市の共有財産になったことは群馬音楽センターと同じ経緯です。日本の中では数少ない例だと思います。


 都市高崎は、百年間の歩みの中で先人達がつくってきたものを受け止めながら、しかしあまりにもすばらしい遺産を今まで食いつぶしてきたのかもしれない。今こそ力をあわせ、先人たちの名を継ぎながら、高崎のDNAを継いでいきながら、都市高崎がより輝くまちになるように努力をしなければならない。それぞれが自分の場所で、お互いを支え合うネットワークを大切にしていくことが必要だと思います。


魅力ある都市に向けて/高崎青年会議所フォーラム

●対談 田中則之・大沢博史

大沢 なぜ群響と群馬音楽センターがまちづくりにつながるかを考えていきたいと思います。


田中 高崎の新しい市民となり四年目です。高崎青年会議所が昨年もフォーラムをなさって参加しました。その時。高崎市はクラシック向けのホールを作って、群響が運営すべきだと提案がありました。ヨーロッパのホールとオーケストラの関係をよくご存知の方だと思い、興味を持ちました。その後、その方と知り合うこともできました。


大沢 田中さんは高崎市民新聞に「群響と音楽センターから高崎のまちづくりを考える」連載を始められました。青年会議所も地域づくり、まちづくり活動をしています。群馬音楽センターが建設される時には設立促進大会を開催したり、二十一万市民と群響によるてづくりの音楽会といった事業もありました。これは現在の「森とオーケストラ」につながていると思います。青年会議所は、その時代に応じて高崎のまちづくりの課題に取り組んできました。


田中 音楽センターをホールではなく、まちづくりの問題とする着想はすばらしい。ホールが社会の装置として考えられることがほとんどなかった。高崎に来てから感じましたが、群馬音楽センターは非常に重い。心の中に重いのです。市民の心の中に重さがあるのだと思います。


 まちづくりの中で、戦後に生み出されたものがまちのオリジナリティになったり、まちのシンボルになったりすることは、日本の中ではほとんどありません。江戸時代以前にすばらしかったものがほとんどです。我々に近い世代が残してくれた財産がまちのオリジナリティだと自信を持って言えるのは、ほとんど無いと思います。


大沢 できた当時から比べると、今は成熟した社会になっている。これからどう生かしていくかを考えた時、オーケストラの住むまちとして世界への発信力が十分にあると思います。そこにはどういったホールが望ましいのでしょうか。高崎のまちづくりにつながり、群響が生き生きとするホール、市民が誇れるホールであってほしいと思います。その時に音楽センターをどうするのかは、別の問題だと思っています。


田中 音楽センターは、本当に古いのかどうか。五十年経っていますから新しいとは言えませんが、古いのかどうかきちんと検証されてもいい。市の調査の結果が発表になってからきちんと考えないといけない。ホールは安い買い物ではない。高崎市の懐具合が本当に大丈夫なのかということも、ちゃんと考えなければいけない。高崎市が情報提供してくれなければいけないと思います。


 明治維新以降、日本は西洋の文明を積極的に受け入れたが十分消化せず、中途半端に定着しています。群響は月に一回演奏会をやります。こんなに演奏会の少ないオーケストラはありません。本物でなければ生き残れません。中途半端になっている群響を、本物にしなければいけない。ヨーロッパと同じように毎週コンサートをやるようなオーケストラにしなければいけない。そのためには本拠地になるホールも必要だし、お客さんがいなければ何もならない。こうしたことを一からやらなければいけない。


 何よりもオーケストラを本物にすることが大事なので、ホールはその後に付いてくる。無理なら新しいホールでなくていいと思います。


 他都市を参考にするのではなく、自分たちのまちは自分たちで処方箋をつくらなくてはいけません。


大沢 群響と高崎のまちの関係についてはどのように考えますか。


田中 高崎のまちにとって群響は宿命です。会場に六十五歳以上の方は何人いらっしゃいますか。群響よりも年若の人間がここに集まっています。高崎ではみなさんよりも群響のほうが古いのです。群響のあるまちに生まれ、住んでいるのです。それは宿命です。


 雪が嫌いでも雪国に生まれれば、雪とうまく折り合いをつけて生きていかなければいけません。雪かきをするのはしょうがないことです。雪国を雪が降らないまちには変えられない。


 戦後の苦しい中で群響を作ってしまった高崎市は、日本で一番すばらしいまちです。こんな小さな町がオーケストラを作ろうとしたのです。それを六十年以上存続させていることを、もっと誇りにしなければいけません。ただ、群響はまだ本物ではない、正統的ではない。群響の技量のことではありません。オーケストラは演奏するのが仕事です。月一回くらいではいけません。もっともっと演奏しよう、もっともっと聞くお客さんをつくろう。生やさしいことでないことは十分わかっています。


 オーケストラを持っている宿命を考えることが、何より高崎のまちづくりだと思います。


大沢 オーケストラ専用のホール、数多くの演奏会、それを支える聴衆、世界のオーケストラはそういう在り方をしている。群響や音楽センターがまちづくりに生かせれば、他の資源もまちづくりに生かせるようにまちになると思います。


田中 オーケストラは演奏するのが仕事ですから、遠慮無く演奏できるホールが必要なんです。演奏会をやりたいけれど、ホールを借りるお金がないからできないというのではダメなんです。いつでも自由に使えるホールが必要なのです。そして演奏会のお客さんも作っていくのが、オーケストラを持ったまちの新たな宿命です。


 六十年間、群響を維持した力はすごいです。それだけ維持してきたということは、もうやめるにやめられない。ここで群響が無くなったら、高崎と高崎市民は、どこへ行ってもオーケストラをつぶしたまち、オーケストラを殺したまち、オーケストラに逃げられたまちと言われて、芸術を語る資格がないまちと言われてしまうかもしれない。


 財産はすばらしいのだから、精一杯生かすことを考えなければいけないと思います。


大沢 東京と同じような都市としての格を競いあうことから解放されるべきなのではないかと思います。高崎にしかないオリジナルなものを生かしてまちづくりをしていこう。一つひとつを自分たちのものだと自覚しなければいけない。文化の面では、群響、音楽センターは大きな要素になると思います。青年会議所は、そうしたものと向き合ったまちづくりをしていきたいと思います。


田中 オリジナリティと、どこのまちでも言われます。高崎のオリジナリティはたくさんありますが、絶対に忘れてほしくないのが群響だと私は強調したいです。みなさんは気づいていないかもしれませんが、日本で最初に地域のオーケストラを作ったまちは高崎です。


 群響を考えれば、そこから色々なことが見えてきます。


(文責/菅田明則・新井重雄)

高崎商工会議所『商工たかさき』2009年10月号

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