吉野 秀雄

よしの ひでお(1902〜1967)

生命への慈しみを歌いあげた 弧高の歌人

吉野 秀雄吉野 秀雄

関東有数の織物問屋の子

 吉野秀雄は関東有数の織物問屋「吉野藤」の創立者、吉野藤一郎の次男として高崎市新町(あら町)に生まれました。藤一郎は富岡で呉服屋を営む父・藤作の元から、明治の末に高崎市へ進出、特産裏絹の専門問屋を開きました。大正期の上州商人として初めて東京進出に成功しました。

 秀雄は、幼いころから病弱で、小学校入学を機に富岡の祖父母に預けられました。「自然への酷愛と、母恋しさのセンチメンタリズムとで、平凡な少年の心にも詩歌の根がかすかにおりた」と後に秀雄は述べています。首席で小学校を終えると、高崎の生家にもどり、高崎商業へ入学。正岡子規門下の長塚節と縁つづきで自らも写生派だった国語教師・丹羽泰蔵から俳句の講義を受け、興味を膨らませました。また、高校三年の夏休みの宿題に、漢字のヘンとツクリを分解して草書を覚えさせる練習があり、たちまち夢中になったことが、後に書に傾倒するきっかけとなりました。

歌人としての一歩を踏み出す

 少年のころ『福翁自伝』を愛読し福沢諭吉を敬愛していた秀雄は、5年間の高崎商業を首席で卒業すると慶応義塾に進学。しかし、理財科に進んだにもかかわらず、文学的興味が広がり源氏物語の講義を聴講するほどでした。

 理財科から経済学部に進み、卒業の一年前に胸を患い、大正13年3月、23歳で学業を断念して高崎に帰郷しました。青春の希望が病気によって砕け散ったみじめさを埋めるように、以降、秀雄は歌人の道を歩み始めます。

 特に、正岡子規や伊藤左千夫ら「アララギ」派歌人の作品に夢中になり、子規の「写生説」に感銘して『竹乃里歌』を手本に作歌を始めたのでした。

鎌倉での療養生活 初恋を実らせた結婚、別れ

 大正14年より3年余りに及ぶ鎌倉での転地療養生活が始まりました。

 大正15年には学生時代から育んできた愛情を実らさせ、富岡出身の栗原はつ子と結婚。昭和6年に鎌倉へ移住します。多くの文化人との交友を深めるとともに、鎌倉短歌会も結成しています。その後太平洋戦争の時代を迎え、秀雄は極めて過酷な日々を過ごしました。病身に加え、貧困との闘い、昭和19年には4人の子どもを残してはつ子夫人に先立たれました。その死について、

母の前を 我はかまはずこと 縡切れし
汝の口びるに 永く接吻く

など多くの追慕の作品を残しました。

鎌倉アカデミア教師、二人目の妻

 戦後間もない昭和21年4月に開校された鎌倉アカデミアで、秀雄は万葉集のすばらしさと写生を説き続け、学生達の人気を集めました。しかし4年後には経営に行き詰まり、廃校となりました。この間、秀雄は詩人八木重吉の未亡人登美子と再婚します。結婚式は鎌倉の自宅で、内村鑑三の直門である鈴木俊郎の司会で簡素に行われました。秀雄は誓詞の代わりに三首の歌を詠みあげました。その一句が

この世に 二人の妻と 婚ひつれど
ふたりは我に 一人なるのみ

で、秀雄の優しさ純粋さに感動し、すすり泣く女性もいたといいます。

人としての魅力に富み
独自の歌風を築く

 秀雄の歌風は生活に密着した経験的事実をありのままに、しかも率直に歌いあげるというもので、無駄をはぶいた表現は直線的なものでした。

 昭和21年に出した、4人の子を遺して亡くなった妻・はつ子を詠んだ『短歌百余章』によって、歌人としての地位を確立。生涯を通して結社や流派に属さず、独自の歌風を築きました。

 秀雄は短歌だけでなく、書にも積極的に取り組み、文士としての名もとどろかせ、ラジオやテレビにも多く出演。花のある歌人として活躍しました。

 また、秀雄の酒好きは有名でした。高崎公園近くに住んでいた俳人の村上占魚とは無類の酒友で、病の中でも酒を断つことはありませんでした。"吉野は酔うとろれつの回らぬ大声を上げ「どっこい、おいらは生きている」と叫んだ"と占魚は記しています。

故郷の山河に今も残る吉野秀雄の魂

高崎公園にある吉野秀雄の歌碑高崎公園にある吉野秀雄の歌碑

 秀雄は鎌倉に移り住むようになってからも、故郷への思いは強く、手紙や短歌を通じて友人や知人との交流を重ねました。

 幼い秀雄とベースボールをして遊んだ友人に、石材店を営む藤沢清七郎がいました。藤沢は秀雄の随筆集『やわらかな心』の出版を知り、50余年ぶりに秀雄に手紙を書きました。秀雄は懐かしさのあまり、昭和22年の春に高崎公園の白モクレンの下で詠んだ直筆の

白木蓮の 花の千万 青空に
白さ刻みて しづもりにけり

の一首を添え本と返信をくれました。秀雄が重病の床に苦しんでいた昭和42年3月のことでした。 藤沢はこの感激を永遠にとどめておくため、高崎公園に自費で歌碑を建てました。そしてこの歌碑の建立が、歌人吉野秀雄を多くの高崎市民に伝えることになりました。そのほか、問屋町の公園や高崎商業高校などにも歌碑が建立され、秀雄の歌の心を伝えています。

※参考文献 『やわらかな心』(吉野秀雄著)、『吉野秀雄集』(赤松大麓編)『生誕100年記念展 歌びと 吉野秀雄』(神奈川文学振興会)

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