沼賀 健次

ぬまが けんじ(1908〜1988)

教育者から高崎市長へ
―絶妙なバランス感覚と独自の教育哲学をもった豪放磊落な高崎人―

沼賀 健次沼賀 健次

市民党を旗印に戦った市長選

 沼賀健次は、昭和46年から4期、16年間高崎市の市長を務めました。初めての高崎市長選では、5選をめざした住谷啓三郎前市長、県会議員の吉井英太郎、共産党県役員の宮沢忠夫と健次の4人の候補者が出馬しました。

 住谷の応援に中曽根康弘防衛庁長官が、吉井の応援に福田赳夫大蔵大臣が駆けつけた中、元県立高崎商業高等学校校長として多くの敬慕を集めてきた健次は、市民党を旗印に「高商軍団」といわれた高商同窓生が中心となり活発な選挙戦を展開。三つ巴の激戦が繰り広げられる中、二人の大物政治家を相手に堂々と渡り合い、4万7,834票を獲得。3万6,703票の住谷を制して第20代市長に当選しました。

教育行政に残した大きな足跡

 「教育市長」と呼ばれた沼賀健次の個性というべき教育哲学は、高崎の教育史の中でも大きな足跡を残しました。市内の小学校の8割、中学校の約9割が木造校舎だったところを任期二期終了時には、9割前後の校舎を鉄筋コンクリートの不燃性建築に建て替えました。小学校9校と中学校5校を任期中に新設し、市内小中学校・養護学校の完全給食化も推進。費用がかかっても心のこもった安全な食物を子どもたちに届けたいと、各学校に単独自校方式の調理を採用しました。

 また、高度経済成長期に市政を担い、青年センター、農業総合センター、医療センター、歯科医療センター、総合文化会館、シルバー人材センター、総合卸売市場、浜川体育館などを完成させました。 「型にはまらぬ野人」と評され、市民各層から絶大な支持を得ました。

恵まれた環境で伸び伸び育った子ども時代

 健次は、明治41年に群馬郡京ケ島村大字京目の資産家、反町家の三男として生まれました。反町家は中京目村の庄屋で、大勢の番頭や女中がいました。祖父の覚弥は、製糸会社を設立し養蚕県群馬における製糸改良に取り組み、父親の延太郎は県会議員や群馬県教育評議員、京ヶ島村学務委員を務め、村長としては実業補修学校を設立し、小学校校舎を新築するなど教育振興に努めた実力者でした。小学校時代まったく勉強しなかったガキ大将の健次が落第をまぬがれていたのは、この父の存在があったようです。

 健次が小学校5年の夏、米騒動が全国に広がり、地主の子である健次は、小作人たちに「今年は米はいらないって」と言って回りました。そのため反町家に納められる米の量は少なかったにもかかわらず、延太郎は黙って苦笑いしただけでした。地主と小作の格差を気の毒に思った健次の透明な感受性が感じられます。

高商卒業後、東京帝国大卒業まで学業に励んだ8年間

 生徒、教員、校長と、健次の半生は高崎商業学校とともにありました。大正10年3月、健次は高商に入学し、奇行談やいたずら話はここでもこと欠くことはありませんでした。成績は百人中70番くらいでしたが、大学進学に向けて真剣に勉強に打ち込むようになり、5年の3学期にはトップに並ぶ勢いでした。

 高商時代、野球で名を馳せた健次は、明治大学商学部に進学し野球に明け暮れましたが肩をこわし、2年在学した後、帝国大学に進学するため20歳で山形高等学校に入学。昭和6年に東京帝国大学の経済学部商業学科に入学しました。卒業時にはオール優の成績で、学部長から助手として大学に残したいと言われたほどでした。

教職に就き、結婚により沼賀姓に

 兄嫁の口利きで、健次は昭和10年に高商の教員となりました。また、同年に沼賀正子と見合い結婚をし、沼賀姓となります。沼賀家は群馬郡室田村の名家の出で、正子は高崎女子高校在学中、級友からお姫様といわれていました。

 昭和12年に盧溝橋事件が勃発し、日本は中国との本格的な戦闘状態に入りました。健次も一年ほど召集され帰還しましたが、国粋主義者の校長と対立して、高商を去ることになります。

 健次は「もう一度原点に帰って、教育哲学を勉強する」と、31歳で東京帝国大学文学部教育学科に再入学し、33歳で福島高等商業学校(現福島大)の助教授として赴任。ここでの教え子の中に、後に群馬県知事となる清水一郎、高崎経済大の学長となる山崎旭、倉賀野の実業家梅村恵三郎などがいました。

高商の校長を12年間務める

 終戦後、八幡村で農業に励んでいた健次を、高商の校長にしようと同窓会が動き、昭和23年に40歳で校長に就任。

 昭和33年、文部省の発令した勤務評定の実施をめぐり、各学校とも教職員と学校長との対立が深刻化しましたが、健次は「人に点数をつけることはできない」と評定書を白紙で提出。「どうしても点数をつけろと言うなら、みんな百点満点だ」と県の担当者に言い放ちました。

 昭和39年、健次は長い校長生活にピリオドを打ちました。一人の校長が一二年勤めたというのは異例のことでした。

教育現場から政治の世界へ

バトルクリーク市との姉妹都市提携の場でオグレスビー市長に市の鍵を贈呈する沼賀市長バトルクリーク市との姉妹都市提携の場でオグレスビー市長に市の鍵を贈呈する沼賀市長

 「世の中は、私人ではできないこともある。公人になっていれば…」。上武大学の理事会と教職員の紛争を経て、そんな思いを強くしていた健次は、昭和45年高崎市長選への出馬を決意しました。

 「国家百年の計のためには教育を、といいます。教育界にはいろいろな問題があります。教育のもとは清静、人の言動に左右されず、権力に屈することなく、世の喧騒に惑わされることなく清い心でことにあたるということです。教育を市政の根幹におくことは私の基本的理念です」健次の話に聴衆は聞き入りました。

※参考資料『裸の教育者 高崎市長 沼賀健次伝』

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