井上 房一郎
いのうえ ふさいちろう(1898〜1993)
文化と経済の融合をめざし 創造都市高崎を構想する
井上 房一郎
近代高崎の父、井上保三郎の長男として誕生
井上房一郎は、家業である土木建築業を東証二部上場企業に成長させるとともに、その生涯を自身の信念に基づいた文化支援=パトロンとして全うしました。群馬交響楽団、群馬音楽センター、群馬県立美術館の設立などに深く関わるなど、高崎の文化の礎を創ったといえます。
房一郎は、明治31年5月に、井上保三郎・戸ウの長男として高崎町新町(現高崎市八島町)に生まれました。高崎市制が施行される2年前のことです。父・保三郎は、高崎、群馬を代表する地域産業資本家で、高崎白衣大観音の建立者として知られています。
房一郎が6歳の時に母親が33歳の若さで死去し、そのことが、房一郎が目を家庭外に転じ、社会・文化活動へ向かう原動力となったと見られます。
人的ネットワークを生かした活動スタイル
房一郎は、高崎市立南尋常小学校から旧制高崎中学へと進み、大正3年に、父・保三郎の勧めで早稲田大学に入学。しかし、ほどなく退学し、東京美術学校の学生たちと付き合うようになりました。
大正7年に帰郷し「群馬最初のレコードコンサート」を開き、それを手伝った石原寅三郎(後の伊勢崎信用金庫理事長)、関根政巳(後の群馬テレビ社長)は終生の友となりました。
また、同年冬に高崎中学の先輩、蝋山政道(後の東京帝国大学教授)、住谷啓三郎(後の高崎市長)らと「高崎新人会」を結成し、政治学者の吉野作造や大山郁夫らを高崎に招きました。郷里の先輩や後輩、東京の知己を合わせての活動スタイルは、後年の文化活動の原型となりました。
パリで培った感性で 高崎の工芸品づくりを創始
房一郎の青少年期最大の出来事は、生涯の師となった画家・山本鼎との出会いでした。その山本から美術を中心としたパリの文化を学ぶよう留学を勧められ、大正12年に渡仏しました。パリ留学は房一郎の美意識、創造形成の上で大きな意味を持ち、学習の対象を絵画・彫刻から建築・工芸へと広げました。
昭和4年に帰国。当時、商工省貿易局が日本の伝統的工芸を見直し、欧米諸国の生活様式に応じたデザインを施し、輸出を広げようという動きがありました。父の勧めもあり、房一郎は同7年に商工省貿易局嘱託に選ばれ、群馬県工業試験場に関係することになりました。高崎周辺の地場企業の家具、木工、漆工、織物などで指導的役割を果たします。群馬県輸出工芸協会、高崎木工製作配分組合、ミラテス㈱(当時タスパン㈱)、井上工芸研究所、高崎毛織物㈱などを次々と設立し、芸術的香りの高い工芸品を大衆のものにし、輸出を図る社会運動に従事しました。
ブルーノ・タウトとの共同作業
タウト自筆のミラテスの看板
建築家ブルーノ・タウトがナチスと相いれず来日し、昭和9年、井上工芸研究所顧問として高崎にやってきて、禅寺・少林山達磨寺の一隅、洗心亭に居住しました。なかば房一郎は面倒を押しつけられた形でしたが、タウトは房一郎の工芸運動の理想とやり方に共鳴し、工芸の産業化のために尽くしました。房一郎36歳、タウト54歳の時でした。
昭和10年、銀座に「ミラテス」を開店。完成した作品には、房一郎との共同製作を意味する「タウト・井上印」が押されて店頭に並び、国内外へと出て行きました。「タウトさんという素晴らしい協力者なしには、私の工芸運動は成功しなかった」と、房一郎は述べています。しかし、その翌年、タウトはトルコへ旅立ち、同13年に客死しました。また、父・保三郎も同年に死去し、房一郎は40歳で井上工業㈱の代表取締役に就任しました。
高崎を首都圏の山の手に 高崎の都市文化の数々を生み出す
音楽センター落成式典における房一郎とレーモンド
戦後は群馬交響楽団の設立に奔走しました。県下最初の画材店・画廊「珍竹林画廊」の開店にも関係し、山口薫など画家たちと深く交流しました。
また、群馬音楽センターの建設にも尽力し、世界的建築家アントニン・レーモンドを迎え、地方都市最初の音楽専用ホールを完成させました。
群馬県立美術館の建設に際しては、埋もれた日本の美術品や郷土の作家の作品を求めて奔走しました。美術館に日本書画230点余りを寄贈し、「戸方庵井上コレクション」として公開されています。
そして、晩年の房一郎が取り組んだのが、哲学する心を育て市民の精神的よりどころとする哲学堂の構想でした。新しい知識を学び思索する場として、著名な文化人を招き講演会を開催。内容も歴史から科学まで多岐にわたりました。
平成5年、房一郎は志なかばで死去しましたが、高崎哲学堂の運動は、今も市民に受け継がれています。「境遇は与えられるが、環境はつくっていくもの。文化も同じだ」を口癖に、理想社会を描き続けた生涯でした。
参考文献:「パトロンと芸術家―井上房一郎の世界―」、「井上房一郎・人と功績」(熊倉浩靖 著)