清水 善造

しみず ぜんぞう(1891〜1977)

日本スポーツ界の神話になった世界的テニスプレーヤー

清水 善造清水 善造

ウィンブルドンで称えられたスポーツマンシップ

 1920年、ウィンブルドン世界選手権に日本人として初出場した清水善造は、アメリカのビル・チルデンと、準決勝で対戦。世界一の名選手チルデンに対し、小柄な清水は軽やかな身のこなしで善戦しました。

 清水は第1セット、第2セットをいずれも4―6のスコアで落とし、迎えた第3セットは5―2とリード。あと1点でセットをものに出来るところで、清水の球を打ち返したチルデンが、足を滑らせ転倒。清水が逆サイドに打てばそのセットを取れるというシーン。ところが清水は、あわてて立ち上がったチルデンが返球できるよう、ゆっくりと弧を描くボールを送りました。結局、このセットはジュースの連続となり、最後は13―11で清水は敗れました。

 翌日のロンドンタイムズ紙は、「清水はよく戦った。そして、スポーツマンシップがどんなものであるかを示してくれた…」と清水を称えました。

清水の人格があってこそ真実味のある美談

 このエピソードは、大正11年頃から『スポーツマンの精神』、『美しき球』などの題で、小・中学校等の教科書に載り、広く知られるようになりました。

 清水の柔らかな返球について、さまざまな脚色もされ、武士の情けや作戦だったといった議論も起こりました。テニス仲間の熊谷一弥は「清水はコートマナーが良かったので、そんな話が出たのだろう」とコメントしています。清水の謙虚な人格があってこそ、真実としての説得力がありました。

 大正時代、清水ほど国際的に活躍した選手はいませんでした。

親孝行で勤勉な少年時代

 清水善造は、明治24年3月25日、群馬郡箕輪村の清水孝次郎・デンの六人兄弟の長男として生まれました。父親は農業のかたわら乳牛を飼って生計を立てていました。父母は厳しい中にも愛情豊かでりっぱな人たちでした。小学校・高等科と成績優秀だった清水の中学進学を、先生たちが両親に勧めると、牛の面倒と牛乳配達をやることを条件に許可しました。

 清水は12歳から17歳の5年間を高崎中学(現高崎高校)まで、片道10キロの山道を徒歩で通い続けました。登校前に乳しぼりと牛乳配達を済ませ、帰りは空き瓶を回収しながら、牛のえさとなる草刈りに精を出すという過酷な日々を、一日も休まずに続けました。後年「鎌を握るグリップが、テニスのウエスタングリップに通じた」と話しています。生来の俊敏さに加え、足腰が鍛えられ、後の活躍を支えた基礎体力が養われたといえます。3年になった頃、学校にも慣れ放課後に軟式テニスに夢中になる余裕ができました。

 また、通学の道中では、よく本を読み、英語の辞書もほとんど暗記してしまうほどで、学業は常に優秀でした。

テニスに夢中になった大学、三井物産カルカッタ出張員時代

 清水は将来、広く世界の人々を相手に商売をしたいと考え、東京高等商業(現一橋大学)への進学を希望し、箕輪村の資産家・田中孫三郎に学資を出してくれるようかけ合いました。そして、入学試験にみごと合格すると、弟の栄三郎に後を頼み上京しました。

 大学では、不器用で見込みがないといわれながら一途な練習によって、4年でテニス部の主将に推され、大活躍しました。勉強面では親友の助けを借りて成績を維持し、共に三井物産㈱に入社。インドのカルカッタに10年間勤務し、この地で硬式テニスを学び、本格的に打ち込みました。1920年、ウィンブルドンの世界選手権で活躍したのもこの時期、29歳でした。

デビスカップで決勝ラウンドへ世界ランク4位に

 翌1921年には、男子国別対抗戦「デビスカップ」のチャレンジラウンドまで勝ち進み、熊谷一弥と組んで前年チャンピオンのアメリカに挑みました。4人編成のアメリカに対し、ダブルス一試合、シングルス四試合をたった二人で戦わなければならず、0勝5敗で敗れました。しかし、試合内容は観客をうならせるもので、この年、清水は『アイヤーズ・ローンテニス年鑑』で世界4位にランクされました。

 翌年、仙台出身の福島節子と結婚式を挙げると、三井物産ニューヨーク支店に勤務し、庶務掛員・主任を経て支店長代理となりました。会社は広告塔として清水を転勤させたのでした。

 清水は、1926年までデビスカップ日本チームの主将を務めました。海外で、その礼儀正しさやにこやかな笑顔から「ミスター・シミー」「スマイリー・シミー」という愛称で親しまれ、1927年に選手生活を引退すると、後進の育成に尽力しました。

 箕郷地区では、清水善造杯テニス大会、ソフトテニス大会が、毎年5月に開催され、清水の偉業を称えています。

参考資料:『上州スポーツ国記』、『世界とともにあゆむ群馬』、『清水善造と熊谷一弥のデビスカップ争奪戦の思い出』等

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