山崎 種二
やまざき たねじ(1893〜1983)
戦前戦後の動乱期を生き抜いた 相場の神様
山崎 種二
山種コレクションの寄託を受けオープンした高崎市タワー美術館
山崎種二は山種証券(現SMBCフレンド証券株式会社)、山種物産㈱、㈱ヤマタネの創業者で、東京証券取引所理事、全国米穀商組合会会長を務め、兜町の伝説の相場師として知られました。また、種二は戦前より近代日本画の収集に努め、横山大観、川合玉堂、上村松園などをはじめとする日本画の大家との親交も大切にしました。
昭和41年に近・現代日本画専門の山種美術館を設立。速水御舟や奥村土牛作品の収集など、種二のコレクションは質・量ともに比類のないものでした。種二の三男・誠三氏のコレクションを収蔵した「高崎タワー美術館」が、高崎駅東口の高崎タワービル内に開館し、平成13年6月に閉館となりました。誠三氏が所蔵する130点の寄託を受け、平成14年11月に新たに高崎市の施設「高崎市タワー美術館」として開館し、現在に至っています。
名主からの没落 祖父に託された山崎家の再興
種二は明治26年12月、北甘楽郡岩平村大字坂口(現在の吉井町)に生まれました。「私が産声をあげたとき、私の家は水呑み百姓同然のところまで落ちぶれていた」と記しています。山崎家の祖先は加賀前田家の分家に家老として代々仕えてきましたが、13代利長の時、武士を嫌って百姓になりました。百姓といっても名字帯刀を許され、相当な山林、田畑を所有し大勢の小作人を抱えた名主でした。しかし、種二の祖父で道楽者の兵衛が、生糸商との取引に失敗を重ねたうえ、関東一円を襲った百姓一揆ともいえる秩父事件の折に焼き討ちに合い落ちぶれてしまいました。
その後、実直で働き者の四男・種二の父宇太郎が跡を継ぎましたが、莫大な借金を抱え、朝から晩まで身を粉にして働いても、貧乏から抜け出ることができませんでした。そんな両親を、長男の種二はよく手伝い支えました。
体が大きく親切でよく働く親孝行な少年だった種二は、大人からも 「種二さん」と呼ばれて一目置かれていました。そんな種二を祖父は可愛がり山崎家の再興を期待しました。
米相場師の基礎を築いた 山繁商店の店員時代
岩平村尋常小学校を卒業後、15歳で叔父が営む東京深川の回米問屋・山繁商店に小僧として住み込んで、誰よりも一生懸命に働きました。
倉庫番だった種二は、こぼれた米を集めた餌でニワトリを飼い、卵を一個一銭で売りました。また、ペストが流行ったことから、交番に持っていくと一匹につき二銭で買い上げてもらえたネズミをとり、お金を貯えました。
叔父の山繁は、種二を米のツヤ、筋の通り、さわり具合などで米の銘柄がわかるまでに厳しく仕込み、「山繁の種さん」といえば、問屋仲間でも一角の「目利き」として通るようになりました。また、種二は「米相場」についても、堅実な現物売買に終始しました。持ち前の計算力と記憶力に、粘り強さと度胸がうまく溶け込んで、相場師としての素質に磨きがかけられていきました。
初恋の女性を全力で妻に
商売に一途に打ち込んだ種二は、28歳で結婚を決意。相手は取引先の資産家萩原朋太郎(後の群馬蚕糸社長)の娘ふう子でした。立派な花婿候補が並居る中、種二は猛攻勢で本人の承諾を得、両親も承知させました。そのときふう子は、「あなたはお米屋さんだけれど、いつまでもそれではいやですよ」と条件をつけました。
婚約時代に郷里の坂口の家に行く途中、馬で川を渡らなければならなかったとき、「馬は嫌いなので、いつか橋をかけてください」と言ったふう子の言葉を守り、種二は後に星川橋を寄付しました。種二が何度も立たされた苦境に、妻は黙々と家を守りました。その妻に先立たれたとき、種二は涙が止まらなかったといいます。
計算・カン・度胸の三要素で相場の神様に
種二が24歳のとき叔父山崎繁次郎が死去、その後関東大震災で被災、翌年米穀問屋である合名会社山崎種二商店を創業と、目まぐるしく運命が変化しました。
やがて、深川には山崎穀物をもち、東京都民の十分の一、60万人の台所を預かり、山崎繊維の社長として、繊維業界にもその辣腕ぶりを発揮するようになった種二は、「相場の神様」と呼ばれるようになります。
「相場はよく調べ、計算を立てることが肝心。時には気まぐれをやることもあるから、計算だけでもだめで、カンも大事。今が売り時だと思ったら、迷わず断乎として売って出る度胸、この三つが相場に勝つ秘訣だ」というのが種二の相場に対する考えでした。
教育家としても社会に貢献
種二の支援により建てられた山種記念図書館
「50を過ぎたら、もうけた金を社会にもういっぺん返させてもらうよう心掛けなければならない」という言葉を地でいくように、種二は戦前から女学校経営にも身を入れました。戦後、校名を「富士見学園」と改め、中学から高校まで1,500人ばかりの女生徒教育に取り組みました。
種二の故郷・吉井町では種二が寄贈した路線バス「ヤマタネ号」が平成18年に廃車になるまで地域の足として活躍しました。また、設立にあたり種二が資金を一部提供した山種記念図書館(現高崎市立山種記念吉井図書館)は、今も多くの市民が知の泉として利用しています。
※参考文献:自伝「そろばん」、「腕一本 すね一本」