深井 英五
ふかい えいご(1871~1945)
ジャーナリストから第十三代日銀総裁へ 20世紀初頭の日本を代表する国際人
深井 英五
奨学金を得て同志社で学ぶ
深井英五は1871年12月31日、旧高崎藩士深井景忠の五男として高崎市柳川町に生まれました。代々の当主は武芸に秀でるとともに、役人としても才能があり藩の要職に就いていました。武家の厳格な精神に磨かれた家風は英五の大成に影響を与えました。大きな蓄財を残すことなく、人格の人として尊敬を集めたことは、英五の高潔さを語るにふさわしい事実といえます。
彼の一生を支えたのは、米国人も驚くほど卓越した英語力でした。そのことが英五を群馬きっての国際人としたのでした。
小学生のころから西群馬教会(高崎教会の前身)の星野光多牧師に英語を習っていたことからキリスト教の洗礼を受けました。経済的に恵まれず師範学校進学を断念しますが、同志社に入学させる奨学生を探していた新島襄が安中に帰省した折、星野牧師の推薦で奨学金の受給者に選ばれ、1886年同志社英学校普通科に入学しました。在学中は抜群の成績で、特に英語力は群を抜いていました。
ジャーナリストとして活躍
卒業後は同志社で共に学んだ徳富蘆花の兄で明治時代の大ジャーナリスト・徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社。1896年から翌年にかけて蘇峰の欧米巡航に随行して列強の現状を視察しました。
1900年、英五は外報部長のときに蘇峰の推薦で当時の大蔵大臣松方正義の秘書官に転じます。しかし、三ヶ月後に松方蔵相の辞職にともなって職を失い、一年間の浪人生活の後、松方の推薦により1901年、日本銀行に調査役として入行。当時副総裁だった高橋是清に随行し日露戦争の戦費調達のため欧米に出張し、15億円の大半を賄う外債調達に成功しました。
一方、パリ国際経済会議をはじめ、多くの国際会議に出席活躍し、1935年には第13代日銀総裁に就任しました。
この間に、第一次世界大戦後の世界恐慌下の金融調整、浜口幸雄内閣のもとでの金輸出解禁、翌年の犬養毅内閣成立直後の金輸出再禁止に伴う経済激動下、円滑な金融政策の実行に努めました。1936年に勃発した二・二六事件では、後ろ盾の高橋是清を失いましたが、事件後の金融界の動揺も巧みなかじ取りで抑え込み、歴代日銀総裁で最も経済理論に精通した名総裁といわれました。
通貨政策の著書と権威の名を残す
しかし翌年、軍事費増大による赤字国債の発行増には抵抗しきれずに、1937年に総裁を辞任しました。その後貴族院議員を経て枢密顧問官となり、1945年8月15日の枢密院の会議には病躯を押して出席して、日本の敗戦を見届けましたが二カ月後に逝去しました。36年間にわたる日銀生活は、自由主義経済、資本主義を基調とする財政家として高く評価されました。
著書『回顧七十年』は、日銀での幹部行員の教材にもなっています。また、『通貨調節論』、『金本位制離脱後の通貨政策』等の著書を残し、通貨問題の最高権威となりました。
郷里の俳人鬼城や山田昌吉との交流
英五は高崎の俳人村上鬼城と文通を交わす間柄でした。「明治十年代の高崎で政治思想を鼓吹せし山下善之先生の猶興学館や、基督教の伝導と共に始めて正則の英語を教授せし星野光多先生の塾は、青年村上壮太郎(鬼城)氏の通学せし所となるを聞き、私も両先生の教を受けたものである故に一層深き親しみを感じた」と、鬼城が死去した折、英五は追悼文の中に記しています。
また、英五の日銀総裁就任の折、鬼城は高崎市からの依頼を受けて額飾した句をお祝いに贈り、それに対する英五の礼状が残っています(写真)。「終に面識とならなかったが、私は心の友と思って居た」。英五は鬼城の人柄と俳句を敬愛していました。
また『高崎商工会議所六十年史』には、「上州銀行合併その他で指導をうけた高崎市出身の日銀副総裁深井英五氏は昭和10年6月、日本銀行総裁に就任したので高崎の財界人は無上の栄光としてこれを祝福、会議所においてその就任祝賀会が盛大に催された。山田会頭はじめ会議所幹部は、深井総裁と親交を厚くし、経済事情にも通じて、総裁の指導助言によって地方産業の振興、金融の円滑化に努力した」と記されています。高崎の大正・昭和戦前期の産業経済をリードした山田昌吉(商工会議所会頭)にあてた英五の手紙などが山田文庫に保管され、これらの内容を裏付ける交流が偲ばれます。
※この稿は高階勇輔高崎経済大学名誉教授のご指導と村上鬼城記念館・山田文庫のご協力のもとに構成しました。参考文献「群馬新百科事典」「高崎商工会議所六十年史」「上毛人物めぐり」