高崎名僧列伝

田辺鉄定と高崎育児院

高崎名僧列伝:田辺鉄定と高崎育児院

 現在、下横町にある曹洞宗の興禅寺は、高崎城築城以前の和田氏の時代からあった高崎第一の古刹である。


 昭和四十三年三月十五日に高崎市の重要文化財に指定された「和田城並びに興禅寺境内古絵図」は、慶長三年(一五九八)に井伊直政が箕輪から和田の地に移り、高崎城の築城を始める以前の状況を絵図にした貴重な史料である。すなわち烏川と碓氷川の合流点付近の左岸に和田城や南北に通じていた鎌倉街道と興禅寺のいくつもの堂宇や馬上・金井宿などが描かれている。寺は高崎城築城後は、現在の新高崎市庁舎近辺の三の丸にまとめられていたが、享保年間(一八世紀前半)に墓地を、さらに天保十年(一八三八)には、興禅寺のすべての堂宇を、三の丸から、現在の下横町へ移転している。


 明治三十二年(一八九九)に高崎の曹洞宗各寺院と檀徒が、高崎吉祥講を設立、本部をはじめ同じ下横町の向光寺に、次いで興禅寺に移した。同三十五年、その吉祥講に慈恵部と宣教部を置き、慈恵部には将来構想として育児院の設置をあげ、併せて赤貧者への金品の供与、施療、施薬を行い、また無縁者の過去帳も設けて不慮の死者があった場合の供養や天災被災者への義捐活動などを行い、その費用はすべて托鉢金で充てることとした。その吉祥講の講長となったのが、興禅寺第三十世住職の田辺鉄定、副講長が向光寺の山内謙介であった。長松寺の山端息耕による樹徳子守学校も、この高崎吉祥講慈恵部の一環の事業であった。また、市内各宗十六が寺と檀信徒も、明治三十五年十一月に高崎仏教会を創立し、施薬施療、孤児収容、養育園の設立などを目標とし、さっそく翌年、青森県下で飢饉が起きると義捐金を募集し、送金している。


 田辺は、明治三十五年八月五日、ショッキングなできごとに遭遇した。近くの高崎駅頭で亡くなった父親の位牌を背負い、母は駆け落ちしたという八歳の子、翌月にはもう一人の迷い子を引き取った。


 

 日露戦争の際設けられていた高崎出兵軍人家族の幼児保育所が、明治三十九年三月末日で閉鎖されることになったことを契機に、田辺鉄定らは同年五月一日、高崎育児院を寺内に創立することとし、同月七日付けで県の認可を得た。仮院舎には、孤児、棄児四名、そのほか軍人遺族や廃兵遺児十八名(満二歳から六歳児まで)を収容した。高崎市からは翌四十年には五十円、同四十二年には宗務局と県から各百円の補助金を得ている。


 その後施設が狭くなったため、碓氷郡松井田町の補陀寺の衆寮を購入し、隣接する向雲寺の境内地を賃借して移築することとし、四十五年五月に落成した。院児の収容は満三歳から十二歳までとしたが、実際は十八歳以上の者も在園した。大正七年度には男二十五、女八の計三十三名、大正十三年度までの収容は男子五十、女子十八名であった。家族的な育児を心がけ、院主、院母の下に保母を置き、児童と寝食を共にし、乳幼児は里子に出し、学齢児になると、学区内の南小学校へ通学させ、義務教育終了すれば南工補習学校で、将来の自活自営への道を習得させた。


 市や県の補助金を得たものの、経営は次第に困窮化してきた。明治四十一年にはアセチレンガスによる幻灯機、その後には映写機を購入し、資金を募るため、有料幻灯会や映画界を実施し、その公演に県下はもちろん、関東甲信越各地にも及び、浅草から招いた専門の映写技師や最新フィルムで巡回、その活動は十四年間続けられた。


 しかし、将来のことを考えると、根本的な対策を立てる必要を感じ、経営上の安定を得るために、北海道で農場を開墾することとし、準備を始めた。現地に同宗派寺院のあったことから北海道天塩郡天塩村字六志内の原野を適地と決め、資金の募金のため、大正五年五月、高崎育児院顧問で飯塚本町所在の曹洞宗長泉寺住職粕川禅龍を巡回使として委嘱し、各地を廻って、浄財喜捨の募金にあたった。最終的には一三三町歩(約一五五ヘクタール)の土地を四百円で天塩郡寿養寺岸田道開住職と共同購入し、将来的は農地を折半する計画であった。


 

 高崎育児院による北海道天塩の農場開墾の許可がおりたことで、田辺鉄定は原野六七町歩の開拓権を得た。


 大正六年四月二十四日の朝、院生四名を引率、関係者の見送りを受けて両毛線経由で北海道へ向けて出発した。小山駅から急行列車に乗車しようとしたが、移住者は急行に乗車できないというので普通列車で福島、仙台で乗り換え。青函連絡船、小樽から再び乗船、小暴風に遭って皆船酔いして、二十八日の正午過ぎ、天塩港へ着き、寿養寺へ到着したのは午後一時だった。翌日現地は、雪や霰が降った。


 五月一日に初めて原野へ入り、事務所の周囲の笹刈りを始めたが、この日は高崎育児院の創立記念日だった。田辺鉄定によって「天塩農場開拓日誌」が遺されている(『新編高崎市史』資料編10近代現代)が、詳細な記述は開墾作業の苦渋さが紙面ににじんでいる。一行目の「釜入式升五合」は食飯の量、「当雪隠ノ設備ハ生来始メテナリ、阿々」、連日「笹刈り作務」「エーテル壱本」。「此夕始メテ湯ヲ以テ手足洗フ、人間ラシキ手足トナル、而モ未タ四月二十八日以来入浴スル能ハズ」と記したのは五月十一日の日誌である。田辺が高崎に帰ってきたのは七月四日のことであった。現地に残った院生の五年に及ぶ苦闘で成功した。この開墾地は昭和二十年に所有権を入植者に移管登記した。関係遺族は高崎興禅寺へ何度か連絡してきたという。

 一方、育児院の方でも経営を得るため、大正三年に院内に作業所を設けて荷札製造の機械を導入したり、翌四年には靴下製造を始めた。事業経営に対する理解も進んで、協賛者も増加し、「院友」となって金品の寄付や興業の手伝いなどにも応援をした。大正前期ころの職員構成を見ると、院主、院母は無給のままで、有給事務員三名、補助員一、保母・同助手・炊事婦各一名がいて、当時としては充実した態勢だったという。昭和十年ころから院生は減少し、同十二年には閉院した。戦前の民間による福祉事業として注目される業績であった。

高崎の都市戦略 最新記事

勝ち残る専門店

グラスメイツ
グラスメイツ
メガネ店の店員も買いに来るメガネ専門店
有限会社三洋堂
有限会社三洋堂
パソコン全盛時代に書道のおもしろさを伝える
株式会社清水増
株式会社清水増
見事に転身!繊維卸からお祭り専門店へ

すべての記事を見る