高崎名僧列伝
「文学僧」といわれた良翁
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あら町の真言宗延養寺から「浄土秘蜜安心肝要拾三ケ條」という表題の小冊子が刊行されている。これは延養寺の二十四世だった大阿闍梨法師良翁が文化三辰五月(一八二〇)に執筆した直筆稿を、寺の歴史や先代の業績を次々と発掘されている現在の住職佐藤瑛照師の英断で、直筆そのままのかたちで復刻されたもので、今から約一八〇年以前の時代をにじませた和綴本とされた心にくい配慮である。
「十三ケ條」とは、「塗香足香焼香ノ伝」から始まり、「十念ノ伝」までの十三の伝を挙げ、これに解説を加えたもので、わかりやすい表現が続いている。そのすべての箇條についてふれる余地はないので、一部についてだけをみることにする。第一の「塗香足香焼香ノ伝」では、寺院の内陣の入り口で、香炉へ足をかざして清めるのを足香といい、男は左足、女は右足から不浄を清めるもので、足が地獄、餓鬼、畜生の三悪道へ墜ちるのを清め、身に香を塗って自身を清浄するものという。第三の「散花ノ伝」とは、道場に座る時、頂に散らすのは極楽往生を表すために花(華)を散らすのだという。第十の「道場ノ伝」とは、在家から寺へ参ることについては、家は娑婆と思え、寺を極楽とみて、その途中は極楽と娑婆の道すがらで、寺の門は極楽世界の東門で、門の中には諸仏、諸菩薩、仏法を守護する諸天善神が満ちており、仏殿では極楽九品、上位上生の阿弥陀如来が拝めるという。
最後の「十念ノ伝」というのは、又の名を「臨終安心ノ伝」ともいい、男でも女でもその日の家業を終えて夜に入り、就寝の時、仏の御面相を思い出すこと、また、臨終に際して十遍の「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽浄土へ往生することができると説く。
これより先、「光明真言和解鈔」を文化十三年(一八一六)に、「真言日課鏡」を文政元年(一八一八)に相次いで刊行、共に光明真言を掲げて供養と精進を勧めている。
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延養寺は、滝の慈眼寺、玉村町五料の常楽寺と共に、上野国内真言宗の三名刹の一つ。「寺院明細帳」によれば、開祖は慶覚、十四世紀の後半、至徳年中に群馬郡岩鼻村に道場と護摩堂を建てて、吠瑠璃山延養寺と号した。八世の良清の時、永禄元年(一五五八)に箕輪の西明屋へ移り、武田信玄から朱印を受けた。慶長三年(一五九八)に高崎城主井伊直政から、東西四三間、南北四六間の寺地を賜り、移転してきた。
明和五年(一七六八)に生まれた良翁は、滝の慈眼寺第三十四世の良意の弟子として修行する。浅間山が大爆発した天明三年(一七八三)に、権律師、五年後に権小僧都、そしてわずか二十四歳の寛政四年(一七九二)には権大僧都となった。そして享和二年(一八〇二)には岩鼻観音寺から、高崎新町の吠瑠璃山正法院延養寺に入寺した。翌年には早くも初の説法を行い、二間半と三間半の小さな寮を建て、四年後の文化三年(一八〇六)には二間と十六間という長屋を建てて、八祖大師の石碑や梵字供養塔を建立、文化四年には境内に地蔵堂や薬師堂を建て、大般若経六百巻を求めた。
文政五年(一八二二)には本堂を建立するという大事業を完成。同九年には同宗の新後閑の荘厳寺へ隠居したものの、隣接の別当金比羅宮(稲荷神社)も管理、社殿の建て替え、設備の補充など精力的に活動した。そして文政十年(一八二七)には「以呂波便蒙鈔」の原稿を執筆。翌年刊行している。日本古来のいろは四十七文字については、弘法大師の作という伝説があるところから、二十七丁に及ぶ本文と序文、目次のつく刊本で、高崎龍広寺の同じく文学僧であった僧三に序文を依頼している。延養寺の蔵板であるが、開板施主つまり後援者は田町の羽鳥四郎兵衛(号麦仙という俳人。妻が羽鳥一紅で絹問屋)をはじめ九蔵町の福田儀兵衛、新町の長谷川籐右衛門と志村武兵衛、上佐野村の田子伊左衛門ら六人の名が記されている。
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文学僧といわれるにふさわしい業績の一つは、文政十年(一八二七)年の「丁亥孟冬」つまり、この年陰暦十月に石碑を上佐野の西光寺近くに地元の檀徒の協力で建立した。碑の表には「舩木観音」の文字と線刻の馬頭観世音像、その下に「かみつけの佐野の舩はしとりはなし」「親はさくれどわはさかるがえ」と二行にわたって万葉集の東歌を刻し、裏には「古道佐野渡」「延養寺良翁識」と刻んでいる。この碑は佐野の朝日の長者の姫と、対岸の夕日の長者の若者との親の許さぬ悲恋の伝説にからむ物語にもとづく。そしてもう一つの業績は、天保五年(一八三四)が弘法大師の千年大回忌であったことから発願して、五十一年前の天明三年(一七三八)に多くの犠牲者を出した「浅間嶽砂降泥押記」をまとめて刊行した。延養寺にはこの時使用した版木が十二枚(四枚欠)保存されている。
天明の浅間焼けについては信州側、上州側と双方から多くの手記、刊本があり、また流布本も多くあって、萩原進編『浅間山天明噴火資料集』(群馬県文化事業振興会発行)に収録されている。中でも有名なのは、高崎田町の俳人羽鳥一紅が著した『文月浅間記』であるが、同じ高崎の良翁が浅間焼けに関する記録を刊行したのも、文学僧として、また宗教人としての信条による所が大きく、「大師ノ千回忌ナレバ砂降泥押飢饉ノ難記シテ老若男女農喩ノタメニ大都識而己」と主旨を述べている。降砂の状況については「八幡剣崎藤塚上中下豊岡村辺ハ八九寸斗高崎宿下和田新後閑和田田中寺尾上下佐野山名村辺ハ六七寸倉賀野駅矢中中里栗崎台新田岩鼻村辺ハ五六寸」と記し、「良翁十五歳滝慈眼寺良意師ニ随身ノ時ナレバ横手村河原ヱ行キ利根川ヲ見レバ川水ハ硯ノ海ノ色ノヤウニテ或ハ七間八間斗ナル火石黒煙ウツマキテ流行又□上二丈斗高ノ山ノヤウニウ子リテ大蛇(オロチ)の如クナルモノ頭ヲ二ツナラヘテ押来能々見レハ樫楠樟ノ大木根ヨリヌケテ流行川中二人ノ声今ヲカギリトナキサケフヲ聞・・」と続いている。