高崎名僧列伝
聾唖学校を設立した保坂元哉
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例年にない早さで咲きそろった桜の花のもと、平成14年3月28日、92歳の天寿を全うされた並榎町常仙寺の保坂直枝さんがお元気だった頃、平成3年12月に一冊の記念出版をされた。105ページの刊行物は「高崎聾唖学校沿革史」という表題で、直枝さんの厳父保坂元哉=げんさい(曹洞宗常仙寺第二十三世住職)が創立した私立高崎聾唖学校の沿革をまとめた貴重な記録である。
この図書の序文に直枝さんが刊行した動機について、その経緯を記されている。それによると、平成2年11月、筑波大学で障害者教育を研究している柳本雄次教授が常仙寺を訪問されて、「高崎聾唖学校沿革史全」というペン書き原稿の全文を提供されたのだという。この原稿は、創立当時、保坂校長をサポートされてこられた深美福道先生(後に倉賀野永仙寺第二十九世住職)が、教務日誌などをもとにまとめられた記録であった。その深美住職も平成2年12月に他界されたこともあり、障害者教育の原点を見直す上から意義があるとして刊行を決意されたという。
保坂元哉は明治15年(1882)年12月25日、埼玉県児玉郡神保原町で、父保坂晋山、母隣子の間に生まれ、小学校卒業後、保坂伯太郎から元哉と改名。明治35年に高崎中学校の第一回の卒業、本庄の高等小学校の代用教員をしている。その後、仙台第二高等学校を卒業、結婚して翌年直枝が出生、さらに東京帝国大学法学部に入学したが、父死去のために中退、明治44年常仙寺住職となった。
大正2年(1913)2月、下横町向雲寺の山内謙介住職とともに私立徒弟夜学校を設立し、同4年には同校の校長となった。(この学校については別項)。同6年、4月には曹洞宗務院から朝鮮京城府在住の布教師に任ぜられる。三年間現地で活動した。任期を終わって帰国した保坂に暇は与えられず、高崎吉祥講という市内曹洞宗寺院と檀家による慈善事業団(明治33年設立)の理事に就任した。
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朝鮮での布教師の仕事を終えて帰国し、高崎吉祥講の活動に加わったころ、保坂の身辺に思わぬ事態が進んでいた。よし子夫人が耳疾を病み、快方に向かうどころか病が進み、苦悩の日々となった。次第に病を同じくする聾唖者の身辺を考えるようになった。
当時、県下で聾唖者についての教育は立ち遅れていた。盲教育については明治十八年に前橋で伊藤詮吉という人が自宅で私塾を起こし、点字器を初めて使用した(『群馬県教育史』第一巻)のが始まりという。明治二十三年、上毛訓盲院の発足、同二十五年瀬間福一郎が前橋で私塾を始め、さらに三十八年九月に上野教育会附属訓盲所を、四十一年四月にこの施設を群馬県師範学校へ移した。女子師範学校訓導吉川ぎんが東京盲亜学校の講習を受け、二名の聾唖児の指導にあたったのが嚆矢といわれているが、この施設もわずか二年で特別指導を中止している。
赤坂町の曹洞宗寺院長松寺住職の山端息耕は明治三十六年十月五日に私立樹徳子守学校を設立していて、小学校へ通えない児童に救いの手を伸ばしていた。その山端は保坂に対し、再三にわたって聾唖学校の設立を強く奨めた。保坂は自ら大正十年六月東京聾唖学校師範科に入学、翌年三月に同校を卒業した。応援したのは山端ひとりではなかった。北尋常小学校上原喜曾八は長松寺に北小学校の分校があったことや子守学校への協力、援助もあって、積極的であった。そのほか高崎市助役の関吉晴、相生町の吉村半七・ゑい子夫妻、医師津金豊二、浅井福道(後の深美福道)らである。
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大正十一年三月十八日、私立高崎聾唖学校の設立申請書を県に提出し、四月十日に同校の設立が群馬県知事から認可された。保坂のほか石川進、浅井福道が教員に就任。五月十日、児童八人(男六人・女二人)が出席して開校式が請地町の北小学校内にあった樹徳子守学校の教室を借用して行われた。
大正十一年五月十日に開校、十二日から授業を始めた。児童六名は市内からの通学生が四名、勢多郡、多野郡からの通学生ははじめ寄留し、後に寄宿舎を赤坂町長松寺とした。教授は主として手話法であったが、本来の教育は口話法であるとして、毎週金曜日を研究日にあて、発声、発音と諸筋肉の動きの関係などを研究して成績向上につくした。発音用や感覚練習用、残聴利用器などを備品としている。
一学期に一度ずつ父兄会を開催したほか、講習会、学芸会、運動会も開催、家庭訪問や印刷物の配布もしている。経費は初年度(大正十一年)は九十八円だったが、最終年度の大正十五年には四九四一円と増加している。補助金は宮内省、文部省、群馬県、高崎市、曹洞宗宗務院などからのほか、篤志者の寄付、共済団、設立者の持ち出しも年ごとに増加した。職員も大正十四年十月からは飯塚町長泉寺の粕川胆衲住職が加わった。
大正十二年八月一日に「盲学校及聾唖学校令」が公布され、初等部(六カ年)と中等部(五カ年)となり、新制度になる認可願いを文部省に大正十三年三月廿日に申請、同年四月一日から高崎聾唖学校として学校体系として確立した。この年度から入学児童も増加し、大正十三年度二十二名、十四年度三十一名、十五年三十九名、出身も全県下にひろがり、一部県外までいた。
大正末期になり、県下の社会事業同志会などの県や県議会への熱心な働きがけが始まった。明治四十三年に前橋市岩神町に県立感化院群馬学院が設立され、昭和二年に県立盲唖学校が設立され、併合されることになった。初代校長は前橋盲学校長だった大森房吉だった。保坂は昭和二年四月一日付けで同校教頭となった。前橋に新校舎ができるまでは高崎、前橋に校舎があった。昭和四年四月に保坂が同校校長となり、同八年九月三十日退職、同九年一月八日に病没。
昭和五十二年、県立ろう学校五〇周年に同校正面脇に保坂元哉の胸像と碑文を建立、その遺徳を伝えている。