ちょんまげ時代の高崎:第一話 名付け親・直政公

第一話 名付け親・直政公

ちょんまげ時代の高崎:第一話 名付け親・直政公

 男性の髪型として江戸時代に流行した「ちょんまげ(丁髷)」は、同時代を象徴している。この江戸時代になってから、庶民大衆が家族を形成し、親子ともども生活するようになり、家を通して継承されるようになったと言われる。従って、この頃からは歴史的に自分の祖先をさかのぼることができ、我が家の系図にも江戸以前について書かれてはいるが位牌もあり、はっきりしているのは江戸時代初期からで、私が十三代目にあたる。


  江戸時代は、約二百五十年もの間、全く戦争をせずに平和を楽しみ、文化と富を蓄積した。一つの巨大民族としては世界的に希有な現象である。明治になって、薩長中心の政府が天皇制の伝統の古さを強調し、江戸時代を意図的に黙殺したため、今日に正しく伝わらなかった。しかし、我が高崎の今日への影響は、江戸時代が大である。そこで我が家に伝わる史料を中心に出来事を今日に綴ってみる。


  高崎は井伊さんから始まる。井伊直政という武将が、本拠地を箕輪(現箕郷町)から和田と呼ばれていた地に本拠を移したとき、高崎と名付けたと言われる。だから高崎と言う名前でのスタートは井伊さんからとなる。


  直政公は、家康が江戸に入ったとき戦国時代に上州の中心的な城であった箕輪を拝領したが、これからの時代は中山道と三国街道が交わる和田の地が要衝であるからと、箕輪から和田へ居城を移し、城づくり、町づくりを開始した。箕輪から家来はもちろん、住民や寺院まで移転し、十二万石にふさわしい縄張りに取りかかった。町ぐるみの引っ越しなので、高崎には箕輪に由来する町名が多く残っている。


  ところが、直政公は関ヶ原の合戦後の豊臣方に備えるため、西軍の中心人物であった石田三成の居城佐和山(現在の滋賀県彦根市)へ十八万石に加増され転封。徳川きっての武将が高崎の生みの親だが、わずか二年足らずしかいなかった。


  このことは、ある意味でその後の高崎を苦しめることになった。と言うのは、井伊さんに匹敵する殿様が見つからなかったのか、四年間も殿様のいない城番時代が続き、その後に入封した殿様はみな五万石程度だったので井伊さんの計画した縄張りが宙に浮き、安藤氏の後半になるまで城は確定しなかった。人口十二万の予定が五万になってしまった都市で市庁舎の規模を前の計画のままではいかないように。


堤克政▼高崎城主大河内家の家老等を務めた堤家十三代。群馬県文書館に登録された「堤家文書」他、多数の残された史料を基に、高崎の江戸時代を今日的に探る。

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