高崎新風土記「私の心の風景」
82. 枯野見
吉永哲郎
「枯野見」は冬の季語で、冬の暖かい日など、郊外の枯れ野の風景を見に行くことをいいます。特に冬の川原は「枯野見」を満喫させてくれます。遠くに見える集落のたたずまいを眺め、きつね色の枯れ野原を歩いていますと、あわただしい現実をしばし忘れ、自分自身との対話をとりもどせる至福のひとときを持つことができます。
また、今は少なくなりましたが、枯れ野の一本道を歩いていますと、そこに俳人芭蕉の旅姿を見かけるのではと、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」を口にし、夏目漱石の「吾が影の吹かれて長き枯野かな」の句を思い浮かべたりします。
さて、私にとっての「枯野見」は、上信線の佐野の鉄橋から川下の風景を見にいきます。それは半世紀も前、お年賀で恩師のお宅にうかがったときの道が、今でもところどころ残っているのです。そこを歩いていますと少年の頃の心が甦ります。
その心は色褪せましたが、「俳諧の心」を求め歩き続けた芭蕉の姿に今の自分を重ね、これからも追い求めているものへ向かって、積極的に生きる人生をと心を燃え立たせます。この燃える心を源氏物語では「艶」と、紫式部は表現しています。
さびしい冬枯れの風景に、己の姿をかさね「艶」なるものを見出すのが、私の「枯野見」です。高崎にはいたるところに、詩情を感じさせる枯れ野風景があります。
さて、暖かい日に「枯野見吟行」をなさいませんか。木部町の鏑川沿いの土手の一本道などいかがでしょうか。一句ものにしていただけたらと思います。
(高崎商工会議所『商工たかさき』2011年1月号)
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