映画のある風景
文化の玄関口、豊田屋旅館
志尾 睦子
先月、南公民館で開催された熟年講座に呼んで頂いた。受講生の皆さんは60代後半以降の方々。「映画文化と高崎」について話してほしいとのことで、まずは高崎の映画館史を振り返ってみる事にした。高崎に初めて映画館が登場したのは大正2年の柳川町の電気館。後に松竹電気館となり、改築がありはしたものの、今現在も建物が残っているあの場所はほぼ変わらない。改めて歴史の深さを痛感した。
昭和32年の興業史によれば、当時高崎市には8つの映画館があった。昭和40年以降だんだんと数は減少して行き、現在の状況に至る。調べた資料片手に、当時の映画館の場所を確認し、そして当時の街の様子を皆さんとともに辿ってみた。高崎の映画文化といえば外せないのが『ここに泉あり』である。群馬交響楽団の黎明期を描いたという事も重要なポイントだが、当時の街並を辿れるという意味でも貴重だ。製作されたのが1955年。物語の始まりの設定が終戦直後だから、10年間の変化は作り込みされているとはいえ、ほぼロケ撮影なので、昭和30年代の高崎の街が克明に映しとられていることになる。
冒頭、楽団員たちがわらわらと楽器を抱えて改札を抜けようとする高崎駅。東京からやって来た速水が楽団の所在地を尋ねる商店街の大通り、オーケストラが拠点としていた九蔵町の通り。アスファルトになっていない道、2階建てがせいぜいの建物の連なり、看板などに当時が見えて来る。そんな話をする中で、受講生皆さんの心に深く残っていたのが豊田屋旅館での光景だった。
『ここに泉あり』から連想するのは撮影では使われていない豊田屋旅館だと言う。なぜかと言えば主人公演じる岸恵子、岡田英二、そして高崎出身の俳優小林桂樹らが撮影中に宿泊していたためで、毎日黒山の人だかりが旅館の前に出来ていて、その光景を容易に思い出せるというのだ。小林桂樹さんは豊田屋旅館さんのご親戚でもありそんなご縁も、映画と町の絆を深め、市民の心に浸透していったのかもしれない。
2001年の道路拡張に伴い母屋は奥へと曳きこまれ、改装された部分もあるが、創業明治17年からの長く深い歴史を引き継いでいる。女優の森光子さんが給仕として働いていたとか、司馬遼太郎さんが泊まったとかいう話もある。長きにわたり多くの文化人、著名人の宿泊所となってきたこの旅館にはたくさんの人生がまた詰まっている。それはまた次回のお話にすることにして、高崎を訪れる客人たちを温かく迎え入れるこの玄関が今も昔も変わらずそこに居続けることがなによりの文化の始まりだと思えてならない。
- [次回:10. 柱に刷り込まれた記憶]
- [前回:8. 映画文化を支える映写機]