知の巨人・水原徳言が遺したもの
(2010年1月)
昨年12月3日、20世紀を代表する世界的な建築家ブルーノ・タウトと深く親交のあった水原徳言翁が98歳で逝去された。翁を知る人々は「とくげん先生」とお呼びしていたが本名は「よしゆき」。翁はある講演の席上で『私は「とくげん」ではなく「毒言」です』と自らを語られ、明治人の気骨そのままの生涯を生きた人だった。高崎の巨星、日本にとっても稀少な存在が消えた。
翁は1911年生まれ。1930年、井上房一郎が高崎で始めた工芸製品活動に参加。タウトが高崎に滞在し、工芸製品制作の指導に関わるようになった際、共同制作者、協力者として活動する。日本における、タウトの唯一の弟子と言われている。
翁が設計した内村鑑三の記念碑が、烏川を見下ろす頼政神社境内に凛として建っている。碑に刻まれた「上州人」と題した鑑三晩年の漢詩は上州人の気質を表現していることで知られている。翁は「内村鑑三先生こそ、真の上州人です」と語っていたという。そして翁自身も真の上州人であり、知の巨人として高崎の都市計画、建築、デザイン、美術、商業に多くの影響を与えた。
そして、その孤立を恐れない威厳に満ちた精神性や創造性は、常に過去と現代と未来を結んでいた。また高崎にありながら当時としては類を見ない程グローバルな普遍性をも持っていた。
その水原徳言翁が遺した作品の数々が今も高崎の街に息づいている。
水原徳言氏を偲ぶ
群馬県立女子大学 群馬学センター
熊倉 浩靖
水原さんは、井上工業の井上房一郎翁が進めていた工芸運動の中心的な役割を果たした。翁に請われ、井上工芸研究所研究員となり、ブルーノ・タウトに出会う。東京銀座ミラテスでマネージャーをつとめ、技術、マーケーティングともに優れた才能を発揮した。
武士の家に生まれた水原さんは、士族としての意識と鋭い美的感覚を持ち、内村鑑三を範に、工芸や建築、芸術の中で生きた。タウトの美意識を最も理解していた人と言えるだろう。水原さんを伝える弟子がおらず、水原さんの知的資産、多くの貴重な資料が市民の共有財産となっていないことがとても惜しまれる。
あさを社・代表取締役
関口 ふさの
水原さんに、一つのことをたずねると、ものすごい量の本の中から、移動式の本箱をガラガラと引きずってきて資料を取り出し、十も百も教えてくれる。水原さんと言うとタウトのことを思い出す人が多いだろうが、知らないことがないと思うほど、歴史や文化多岐にわたって深い造詣を持っていた。
白銀町に「上州路の店」を出していた時に、展覧会の相談をすると、スケールを持って、室内を計り回り、あっと言う間にデッサンを描いてくれた。動き回る水原さんの姿がとても速かったのが印象的だった。生前、著作集を出版しようかと考えたことがあった。今を思えば、もっと積極的に働きかけておけば良かったと悔やまれる。
(文責/菅田明則・新井重雄)
高崎商工会議所『商工たかさき』2010年1月号