市民が支えた60年
(2010年1月)
高崎市民新聞編集主幹 小見勝栄
今年は高崎市制110周年の年。明治三十三年(1900)四月一日に高崎市が誕生した。初代市長は矢島八郎翁、人口は3万1592人だった。現在の人口は、合併による市域の拡大で37万4716人(平成二十一年十一月末)で、県内最大の都市である。
市制百周年の慶祝記念行事の興奮がまだ昨日のように思えるのに、もう十年がたとうとしている。歳月の流れは何と速いものか。
戦後六十五年。特に戦前の混乱期を除けば、戦後の歴代の高崎市長は小島弘一、住谷啓三郎、沼賀健二、松浦幸雄の四人を数えるだけだ。各歴代市長が何期にもわたって市政を担当しているのは、執政に大きな政争や混乱、不正がなかった証左である。全国最多選の連続十期の吉野勇・貝塚市長(大阪府・82歳)が二月に退任するので、現在六期目の松浦市長が、全国最多選市長となる。松浦市長も今年八十歳を迎えるが、気力、体力とも旺盛で、市政をあずかる首長としてなんら不安はなく見える。多選で言われる弊害や批判を、いかに喝破できるかだ。
さて、巷では、ポスト松浦をめぐって、何人かの人物が噂され、憶測情報が飛び交っている。もし噂の人物が、本当に高崎市政に意欲を持っているなら、高崎の未来を語る見識や、その意見の論拠を堂々と発表すべきである。現市長の動向や顔色によって態度を決めようなどと、姑息に労を煩う人物ならば、もはや首長の席に座す器はない。いづれにせよ、今年は月を追うごとにポスト市長の話題はにぎやかになりそうだ。
高崎市民新聞は、今年創刊六十周年を迎えます。
ここで本紙誕生の経緯をいささか検証してみたい。高崎には太平洋戦争まで二紙の地方新聞があったが、言論統制で廃刊になった。昭和二十五年四月二十八日、旧高崎市女高でGHQ(連合国総司令部)の新聞講演会が開かれ、日本の民主化政策をすすめるため、市民自身の手で郷土新聞をつくろうという気運が盛り上がった。六月七日、高崎商工会議所内に「株式会社高崎市民新聞社」が歴史的な呱々の声を上げた。
昭和二十五年六月十五日、高崎市民新聞第一号が2万部発行された。
資本金は市民百人が一株株主となった。一般市民、商店主、教職関係者が中心となり、政治関係者は排除となった。取締役社長に櫻井伊兵衛、常務取締役に吉野五郎、友松善三郎、取締役に斉藤忠三郎、塚越欽次郎、児玉安蔵、関口市吉、吉田文子、久保田栄二郎といった、当時の高崎を代表する錚々たる面々である。記者には設立当初から生涯一新聞人として市民新聞の松明の炎を赤々と守った岡田稲夫。後年、岡田はその功績により高崎市文化賞を授与された。創刊以来、新聞の配達は高崎高校新聞班のアルバイト学生十七人が戸別配達した。
こうした市民新聞の活動はGHQの組織CIE(民間情報教育局)によって映画「高崎での話」として完成。この映画には、昭和二十五、六年の高崎のまちなみや人物がそのまま映像となっている。昭和二十六年九月二日から高崎電気館で上映され、連日超満員の大盛況。この「高崎での話」のドキュメント映画は、新聞発刊のモデルとして、日本国内の都市だけでなく、欧米でも上映され、高崎は一躍地方週刊紙誕生の都市として知られることになった。私はもっと子細に新聞誕生の真実を記したいが、その紙幅が残っていない。
こうして時の市民の力を結集し、全国に誇れる市民新聞も、時代の様々な紆余曲折を経ながら、六十年の歳月を歩んでいる。近年の活字離れ、支持読者の高齢化、経営状況等々によって、存続に関わるほどの厳しい状況が続いている。是非、市民の皆様のご理解とご支援をいただいて、本紙がたかさきのまちづくりに、いささかでも役割がはたせるようお願いする次第です。