高崎新風土記「私の心の風景」
橋の風景から⑬ ―一本松橋―
吉永哲郎
政権の中心が鎌倉へ移ると、各地からの鎌倉へ通じる道は重要になり、「いざ鎌倉」に備えた関東近郊の主要道を、鎌倉街道といいます。この呼び名が一般化したのは江戸時代以降です。この鎌倉への往還道は幾つもあり、鎌倉から武蔵西部を通り上州に向かう下道<しもつみち>の面影が、高崎に多くあります。その一つが、和田城(後の高崎城)に関する古事録に、若松町の光明寺東側から観音通りを横切り、小万地蔵から烏川左岸の段丘の地に至る道筋が記され、続く竜見町西の段丘の端を細い道が、城南小学校付近まで先年まで通じていました。この道が鎌倉街道の名残です。一昔前の毎月10日には、新後閑の琴平神社参詣の人の姿を見かけました。琴平から佐野の定家神社まで鎌倉街道が続き、その間に万葉集東歌「船橋」の歌碑、謡曲『鉢の木』の舞台となった源左衛門ゆかり常世神社などがあります。鳥川左岸沿いの段丘地を通っていた道は、下佐野で川渡りになります。渡りの場所は川の流れの変化によって一定ではなく、橋を架けたとしても簡素なものだったと思います。しかし、山名と佐野、倉賀野との交通の要地として、欠かせない渡りの場のひとつであったところに「一本松橋」が架けられたと、考えられます。時に欄干に身を寄せ、西の山なみは万葉人が詠んだ「佐野山」であることを思い、山名への道には鎌倉への武士の姿が、と、時空を超えた歴史景観を、眺めてはいかが…。
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