高崎新風土記「私の心の風景」
橋の風景から① ―君が代橋―
吉永哲郎
「ミラボー橋の下をセーヌが流れ」とアポリネールの詩句を口にするような、ゆったりと河を眺める空間が、セーヌ川に架かるパリの橋にはあります。こうした橋上の空間は日本ではなかなかありませんが、最近の聖石橋は、ぼんやりと河の流れを眺められ、好きな橋の1つになりました。さて、これから主な高崎の橋の風景を書き続けます。
江戸時代、中山道・東海道など五街道の橋普請は、関係の藩に課せられ、高崎藩は烏川を任せられていました。その代表的なのが中山道の城下入口にあたる、現在の君が代橋下流にあった筏場橋でした。この辺りは古く越川といわれ、街道の人馬の往来が多くなるにつれ、臨時に土橋(9月から3月まで)が架けられましたが、他の期間は渡船や歩いて渡ったために不便でした。
そこで高崎の町人が藩に請願し板橋を架設しましたが、たびたびの増水で流出したようです。御一新後の明治になり、高崎の商たちが出費しあい橋を架け、常橋といわれました。1878年(明治11)明治天皇北陸東海巡幸を記念して、「君が代橋」と改名され、1893年(明治26)に本格的な木橋になりましたが、1910年(明治43)の大水で流失し、その後何度も仮橋が作られました。
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