県外に出店する小売店
今、あらためて実店舗主義の経営戦略を
人口は減り気味で消費はゆるやかに二極化している。競争はますます激しく、ネット販売の増え方も気にかかる。こうした小売を取り巻く商業環境の変化に対応して小売業はどのような戦略を持ったらよいのか。とにかく、昔と同じ商売をしていたら、じり貧になりかねない。
高崎で創業して県外へ活動の場を求めている小売業は、どんな展開をしているのか確かめてみる。
(取材企業=株式会社トレンディ、株式会社楽歩堂、株式会社大和屋、株式会社ヨシダ)
家電から転身し異分野で大きく展開
株式会社トレンディ(八島町 根岸芳郎 社長)
●若い女性を客層に35店舗を展開
株式会社トレンディは、「エヴァンジル」、「流行屋さん」、「ブルーブランシェ」、「靴下屋」といったショップブランドを、ショッピングモールなどに計35店舗を展開している。店舗は関東圏を中心に近畿まで及ぶ。
雑貨、服飾、アクセサリーを販売し、10代から20代前半の女性を中心とした客層で、店舗は明るく華やかな雰囲気に溢れている。高校生など若い女性向けのお手頃価格の商品も人気で、ファミリー層も取り込んでいる。「靴下屋」は、店名の通り靴下専門店で、思い切った個性化戦略で成功している。
●電気工事から電器店、そしてファッションに移行
同社会長の根岸良司さんが家業の電器店「根岸電機」を慈光通りで継いだ頃は、いわゆる家電メーカー系列の「町の電器屋さん」が隆盛だった。根岸会長は家電店からオーディオ専門店の「サウンドインネギシ」へと形態を移したが、当時、台頭してきた家電量販店や大型ショッピングモールを見て、時代が変わっていくと痛感した。広島へ大型家電量販店を視察に行った時、売場の彼方が霞んで見えるような広さを目の当りにし、その思いを強めた。
その時から、根岸会長のチャレンジが始まった。「売場が空いている」というので本業と平行して藤五伊勢丹BIBIの地階でレンタルレコード店など様々な試みを行いながら、昭和61年に「流行屋」と「靴下屋」を立ち上げた。
その後、「ビブレに出店したい」という念願を叶えながら店舗を一つ、二つと増やしていった。出店したいロケーションには、積極的に営業をかける。
●思いつきでは成功しない
大きな転機となったのは、平成4年の千葉のショッピングセンター「C-ONE」への出店で、出店に莫大な費用をかけ大きな賭けだった。この千葉店が成功しなかったら、現在のトレンディは無いという。イオンモール佐野新都市店から始まった大型ショッピングモールへの展開が店舗網を拡大させた。
根岸会長は、旧・大規模小売店法で定められた大型店と小売店の調整組織「商業活動調整協議会」に出席し、大型店の考え方を知った。綿密な出店計画の説明を受けたことが、経営の糧になったと振り返る。小売ビジネスを数学的なモデルとしてシミュレーションしてみることも経営判断の材料になっているようだ。「小売業は計画的なもので、単なる思いつき、ひらめきではできない」と言う。
「我々の商品の市場は人口10万人に1店舗程度あれば充足する規模だと思う。地方都市のマーケットは小さいかもしれないが人口に見合うシェアは獲得できる」と考えている。
●店を支えるのは人材
店舗に陳列している商品はピアスだけでも3千〜4千アイテムで、売れ筋を絶やさないようにしながら、魅力的なバリエーションを揃えているという。各店によって店舗フォーマットが違い、それぞれが独自の雰囲気を形成している。スタッフ一人ひとりに担当するスペースを割り当て、商品構成を任せており、売場のモチベーションも上がっているようだ。店の雰囲気の中で品物選びを楽しんでもらうことを重視し、客単価が低めであることなどから、ネット販売は今のトレンディのスタイルには適当ではないと根岸会長は考えている。
大型店やショッピングモールの家賃は高く、業績が悪ければ次期の契約更新はない。根岸会長は「売上を支えているのは人材。1店舗1億円をめざしていきたい」と話す。
足と靴の文化を高崎から全国へ
株式会社楽歩堂(緑町 澁谷則明 社長)
●オリジナル靴の自社生産が必要
楽歩堂は、足の健康を考え、ドイツを中心とした整形靴技術を導入し、一人ひとりに合わせたインソール(中敷き)やオリジナル靴を提供し、顧客を広げている。
平成9年に創業し、14年に緑町に800㎡の高崎本店をオープンさせた。ドイツのオーソペディシューマイスター(整形靴技術者)の指導のもと、「足と靴のプロ集団」をめざしてきた。商品となる靴・インソールはドイツを中心にヨーロッパから輸入してきたが、澁谷社長は、日本人の体型や生活習慣に合った良い靴を安価で提供するため、オリジナル靴の開発が重要と考えていた。
靴は輸入に伴う関税率が高く、国内で生産するメリットは価格面で大きい。また、欧米に比べ、日本人は一日の生活の中で靴の脱ぎ履きが多く、靴ひもを結んだりほどいたりすることは面倒に感じる。靴のファッション性も欧米と異なり、日本人の感性に合ったデザインも重要な要素だ。この点もヨーロッパの高品質な工場との提携と共にオリジナル化の中で実現を目指すものであった。
●ロット生産と販路が課題に
オリジナル靴を開発する上で解決しなければならない課題が、採算ベースに見合う生産ロットと、そのロットをさばく販路だった。靴の生産は、靴型の設計、原材料加工、縫製など工程が多く、単価を抑えるには、1つの靴で少なくとも数百個単位のロットが必要になる。高崎の1店舗だけで抱えられる在庫数ではない。また顧客の足に合わせた調整が楽歩堂の靴の最大の特徴で、専門技術を要するため、単に流通販路を広げれば済むわけではなく、ネット販売もできない。
澁谷社長は、まず楽歩堂の店舗数を増やし、オリジナル靴を販売していく基盤づくりに取り組んだ。まず10店舗から15店舗があればスケールメリットにより、ロット生産が可能になる。
●首都圏に挑戦し新宿に進出
平成18年に伊勢崎に2号店を出店、県内だけでは情報発信力が十分ではないと考え、首都圏を取り込む戦略として3番目の店舗として同年、新宿御苑店を出店するが、楽歩堂の魅力が浸透するには時間が必要だった。「群馬県内だけでも2、3年かかった。当社は商品を並べておけば売れるわけではない。お客様を啓発しながらゆっくりと広がっていった。」
新宿への出店は大きな挑戦で、がまんの期間が数年続いたそうだ。新宿御苑店は首都圏の旗艦店で、アンテナショップとしての役割も持ち、客とのコミュニケーションを重視した店舗になっている。興味を持って店に入ってくる客が徐々に増え、都内のビジネスマンやOLを中心に、新たな客層をつかむことができた。
●有名店への出店が加速し存在感示す
新宿御苑店は、顧客にとどまらず、百貨店や大型ショッピングセンターのテナント開発部門の目に止まった。「店舗展開の意欲を示すことができ、新宿への進出がきっかけでオファーが来るようになった」と澁谷社長は振り返る。
平成19年に浦和PARCO、21年に日比谷シャンテ、その後関東から関西、九州へと店舗を拡大し、楽歩堂の存在感を示す出店がこの2、3年で加速した。「若い頃に憧れていた商業施設にも出店できた」とうれしそうだ。1店舗のみ靴小売業社に対するフランチャイズ、他は直営となっている。出店では楽歩堂の集客力と理念に着目され、接客販売スタイルが高く評価されている。こうした流れの中で楽歩堂は店舗開発や輸入を担当する部門を独立、分社化している。
●高崎から足と靴の文化を広げたい
各店舗には、足形測定装置、インソールのミリングマシン(精密切削加工機)などの設備を置き、高崎店と同じサービスを提供している。設備費用もかかり、専門性を持ったスタッフの養成にも時間を要するという。現在15店舗になり「やっと自社生産の基盤ができ上がってきた。50店を目標にしている」と澁谷社長は語る。 「楽歩堂は敷居が高い、価格が高いと言われてきた。自社生産により、海外と同程度の価格で販売できるようになってきている」と店舗網拡大の成果が現れている。
「当社は実店舗が最も重要だ。高崎から足と靴の文化を広げていきたい。栃木県への出店が当面の課題で、宇都宮から北関東・東北へと進出していきたい」と意欲を見せている。
日本的な珈琲文化をFC化
株式会社大和屋(筑縄町 平湯正信 社長)
●直営3店舗・FC39店舗を展開
自家焙煎コーヒーと陶器など、オリジナル商品で個性を発揮し、主婦層を中心に人気の大和屋。和風でおしゃれな高崎本店は大和屋のコンセプトを表現し、こんなお店を自分も開いてみたいと感じる人もいるだろう。
大和屋は市内吉井町に1店舗、北海道札幌市に2店舗の直営店、グループ店39店舗を全国に展開している。グループ店は、大和屋に惚れ込んだ人が経営する「のれん分け」のような形態が特徴で、大和屋の珈琲文化を広げる伝道師になっているようだ。
●大和屋が創った独自の珈琲文化
大和屋は、昭和56年に平湯正信社長が上並榎町に開業した。大手のコーヒーメーカーに勤務していた平湯社長は、全国を転勤していたが、高崎に赴任していた時に結婚、退職し、好きな骨董とコーヒーの店を開こうと一大決心した。大和屋の屋号は平湯社長の故郷・長崎の地名にちなんでいる。
約7坪の店で木炭自家焙煎のコーヒー豆を販売し、骨董や陶器を店に並べていた。自家製、しかも炭火で焙煎したコーヒー豆は当時は珍しく、味を知ってもらうために、益子焼や笠間焼の陶器で無料でコーヒーを試飲してもらう大和屋ならではのサービスもこの時に生まれた。
日本の焼き物で世界のコーヒーを味わう大和屋独自の「珈琲文化」を創り出し、和の心でおもてなしを大切にする大和屋の原点となった。店内には30種のコーヒー豆が並び、平湯社長は、深夜、明け方まで焙煎していたそうだ。そうした努力を重ね、一人、二人と口コミの客が増えていった。
コーヒーを「珈琲」と漢字で表記し、大八車の車輪を照明に使うなど、平湯社長が手作りで考案したコンセプトは、その後の大和屋の店づくりへと発展していく。
上並榎町の店舗が手狭になり、ハナミズキ通りの開通に合わせ平成2年に現在の筑縄町に移転し、理想とした店舗を実現した。この時が大和屋の大きな転機で、新店舗は女性に人気となり、その後、本館横に陶芸館を2棟増築している。
奥様の明美専務と息子の聡常務は「コーヒーだけではここまで伸びなかった。創意工夫が社長の口癖」と語る。
●大和屋の文化を重視した展開
グループ店第1号は大宮店で、上並榎町に店があった時代に平湯社長の親族が開店させた。グループ店展開に本格的に乗り出したのは平成9年からで、大和屋の珈琲と焼き物に対して共感する人材を重視している。グループ店の経営者は、以前からの知人や大和屋の常連客など、あらかじめ関係があった人が基盤になっている。大和屋の常連だった元高経大生が故郷の福井県に自分で店を出したいとグループ店を出し、北陸へ展開するきっかけを作った。その人は、学生時代に夜遅くまで店で平湯社長とコーヒー談義をしていたという。
グループ店に来店した人がまたグループ店を出すといった増え方で、大和屋が提案する文化、ライフスタイルを顧客に提供し、大和屋のファンをそれぞれの商圏で開拓することが大切になっている。大和屋の理念に共感してもらえる人に、グループ店の出店を任せている。グループ店には開店までのノウハウを提供し、大和屋商品を供給する。品揃えは各店舗の地域性も考慮し、裁量を委ねている。
グループ各店のしつらえは高崎本店のコンセプトを踏襲しており、木目の棚にはコーヒー豆が入ったガラスのビンが並んで目を引く。大きな一枚板のテーブルで試飲してもらうスタイルは全店舗で共通している。
●都心型の店舗モデルを模索
インターネット販売も行っているが、ネット客の多くは既に大和屋のコーヒーを経験しているリピーターで、軸足は実店舗に置いている。「安さで価格勝負するネットショップと戦う必要はない」と聡常務は考えている。
「高崎で大和屋のブランドをある程度広めることはできたが、まだまだこれからだ」と聡常務は語る。ゆったりとした時間と空間を提供する現在の大和屋のスタイルは、並木に囲まれた住宅街や郊外型の店舗が似合う。現在展開している店舗は、落ち着いた環境の中にあり、「今後は高崎より南の都心部をめざしていきたい」。また高崎エリアでもまだまだ出店できる可能性はあると話す。「ビジネス街では、試飲のコーヒーを出しても、忙しいからいらないと断られる」と、大和屋のスタイルをそのまま都心に持っていくのは難しい。「これからは大和屋の新しいプラスアルファに創意工夫でチャレンジしていきたい」と、聡常務は次の展開の準備期間だと話す。
ギフトを中心に多角展開
株式会社ヨシダ(問屋町 吉田健一郎 社長)
●ギフトを軸に冠婚葬祭分野へ展開する総合商社
問屋町の「GIFT創造館」は広い店舗内にギフト商品がズラッと奥まで並び、お得感を実感できる価格も大きな魅力だ。ヨシダはギフト商品を扱う「創造館」を県内に6店舗と新潟県に別の屋号で2店舗、料理道具専門店「陶光」を市内1店舗の他、レストラン、ブライダル、葬儀、不動産店舗開発をグループ展開し、総合商社に成長している。
「ギフトを基盤にお客様のニーズに応えてきたことが成長につながった」と吉田社長は語る。
●荒物問屋からギフトの現金問屋へ転換
ヨシダは吉田社長の祖父が昭和8年に大橋町で創業した荒物商が発祥だ。祖父は紙産地の埼玉県小川町出身で、養蚕農家に和紙を行商し、荒物雑貨類も要望されて扱うようになった。昭和43年に問屋団地が造成され現在地に移転、スーパーやJAに荒物雑貨を卸していた。当時もわずかながらギフトの需要はあったという。
吉田社長は大阪の寝具メーカーに3年勤めた後、平成元年に高崎に戻りヨシダに入社した。大型商業施設の進出で小売業が大きく転換していた時期で、「問屋不要論まで言われており、業界の再編が進んでいた」と言う。大阪で学んだ会員制現金問屋の手法を取り入れ、ギフト一本に絞った。一般客を「店を持たない小売店」とし、価格で勝負をかけた。初年度は36頁のカタログを作り、入会無料で2千人の会員カードを配ったという。業界の軋轢はあったが、「良い品をより安く」を信条に、生き残りをかけて戦った。顧客の支持を受け、現在の会員数は約6万人に達している。
●JAとの連携でAコープ跡地に出店
荒物卸の時代から取引先の一つに県内のJAが運営するスーパー「Aコープ」があり、JAの再編で閉店する店舗が出てきた。吉田社長はJAと連携し、空き店舗活用としてAコープ跡に「GIFT創造館」を出店した。平成13年に吾妻店、15年に沼田店、と出店は続いた。これらはJAも力を入れた出店で、特に相互の信頼関係を深めた吾妻店は、JAが抱える課題を解決するビジネスモデルとなっている。
昨年、JA佐波伊勢崎が伊勢崎市に開店させた複合施設「JAラ・ラ・タウン」は、JAの金融店舗、不動産センター、旅行センターとともにヨシダが「GIFT創造館」とブライダルカウンターを開設した。この店舗はヨシダの中・東毛戦略の核になっている。
創造館の拡大に平行して、吉田社長はウェディングや葬儀など冠婚葬祭部門を拡充してきた。地元と強い信頼関係を持つJAとの関係強化により、組合員の利用が高まり、冠婚葬祭に伴う需要を取り込んでいる。
一つの家庭のライフイベントの中で、まとまった数のギフトが必要になる回数は限られており、顧客の獲得は重要な企業戦略だ。地域によってはGIFT創造館の来店客よりも、葬祭需要を取り込む効果の方が大きいという。
●ギフトの役割は心をかたちにすること
JAとの連携を活用し、ギフトに群馬県産農産物の加工品を充実させたり、レストランの食材に使用するなど、吉田社長のアイデアが広がっている。
雑貨の卸問屋として、スーパーや量販店と取引したノウハウや社内体制が、迅速さを求められる葬儀関連業務に活かされている。「人材に恵まれたから成長できた」と吉田社長は語る。
ギフトはお店で品定めして選びたいというお客様が多いという。大きさや重さ、色合い、質感などネットショップのイメージ写真だけでは十分に伝わらない要素もある。「人間関係が希薄になり、ギフト市場は縮小していると言われるが、需要は潜在している。好きな人、大切な人に自分の気持ちを託して届けるのがギフトであり、そうしたお客様の思いに応えることが大切だ」と吉田社長は話す。
県外出店のきっかけは、商圏確保のため、自社生産品の価格抑制のため、ファンによる店舗展開、取引先からの要請等さまざまではあるが、各店の魅力を高めつつ、それらを任せられるスタッフの育成に力を入れて、事業をステップアップしていった。
店舗経営において立地環境の変化は大きな脅威である。他都市への進出は事業拡大であるとともにリスクの分散でもあり、経営戦略上からも理にかなっているといえる。