高崎まつりのルーツを探る

 今年で39回目を数える「高崎まつり」は高崎を代表する祭りだ。高崎の伝統芸能を核に、市民総出のお祭りとして昭和50年に高崎青年会議所を中心とする当時の若者パワーで誕生したもので、地域の慣習や寺社のお祭りなどとは由来が異なっている。

 高崎まつりの花と言えば保有台数日本一といわれる山車行列であり、鬼気迫るばかりの神輿のもみあいも圧巻だ。阿波踊りも華やかで、大花火大会も絶対に見逃すことはできず、とにかく高崎まつりは盛りだくさんとなっている。

●関八州に誇った頼政神社のお祭り

 高崎まつりのルーツは何か、それは今から約200年前に遡る。江戸時代に高崎城下で行われていた頼政神社のお祭りは盛大で、上州一、関八州屈指といわれていた。現在の頼政神社は、高崎城主・大河内輝貞公が、遠祖の源頼政公を祀るために創建したもので、当時の境内は、国道17号側に大きく広がっていた。頼政神社の例大祭は、毎年3回、正月、五月、九月に行われていた。正月26日のお祭りは特に盛大で、高崎藩の威信を誇っていた。現存する絵巻には、幟を掲げ、神馬、神輿、獅子舞、飾り屋台など350人の華やかな行列が描かれている。行列はお堀端から田町、九蔵町、本町を通って赤坂町まで巡っていた。

高崎まつりのルーツを探る

●山車のルーツ「道祖神まつり」

 最近は、正月3日が明けると仕事始めとなり、正月気分もあわただしく終わってしまうが、かつては十五日頃まで「小正月」といわれ、新年のおめでたムードが残っていたものだ。頼政神社例大祭が始まった頃には既に高崎では、小正月に道祖神祭りが行われていた、この道祖神祭りと頼政神社例大祭が、正月26日に同時開催されるようになったとされている。

 例大祭の行列は武士と町民が参加し頼政神社に集結するため、木戸(江戸時代に町々に設けられた門)や狭い路地を通らなければならなかったので山車は大きくなく、人が担ぐ飾り屋台が中心だった。頼政神社例大祭は、武士の時代とともに終わり山車が出されたのは明治2年頃までだった。

 頼政神社例大祭が終わってしまった後は、道祖神祭りが単独で復活し山車を出すようになった。木戸がなくなったので通行しやすくなり、各町内の山車は大型化していったという。明治26年に路面電車が市内を走るようになると、あまり大きなものは不向きとなり、やや幅の狭い山車になったようだ。大正天皇の即位式(大正4年)、昭和天皇の即位式(昭和3年)にも町内から山車が出てお祝いをしたが、それまで山車を持たなかった町内は、これにあわせて新しく作ったという。

●本来は子どものお祭り

 明治以降の道祖神祭りは、子どものお祭りで飾り終わった松飾りを集めて町内ごとに松小屋を作った。松飾りの争奪戦もあったようで、子どもたちは自分たちの松小屋を守ったり、他の町内に攻め入ったりした。松小屋の中で餅を焼いたり、太鼓を叩いてお囃子で遊び、夜になると大人も加わった。時には近所からうるさいと苦情もあり、役場がほどほどにするようにと通達を出すこともあった。

 小正月の13日からが祭りの本番で、山車が町中から一斉に繰り出された。辻で山車が行き会うとお囃子の競い合いが繰り広げられ、祭りは夜遅くまで続いたそうだ。翌14日には松小屋を壊し、それを燃やして「どんど焼き」が行われた。だが、戦時下の昭和14年頃に道祖神祭りも中止され、以降、大々的に行われることはなかった。

高崎まつりのルーツを探る「頼政神社御祭礼御行列之絵図」初めて「高崎まつり」の名称が登場(昭和30年10月)

●高崎ふるさとまつりで再復活

 戦後、一部の町内で道祖神祭りが復活し、昭和20年代まで行われていた。昭和23年から昭和35年頃まで、高崎神社や境内の八坂神社の祭礼として七月に「高崎祇園商業祭」が高崎実業組合連合会の主催で行われ、山車が出された。市民には「祇園まつり」と呼ばれ親しまれた。

 また、昭和30年10月に高崎商工会議所60周年と新高尾・中川・長野・八幡・豊岡の5村との合併を記念して「高崎まつり」が開催された。「高崎まつり」の名称が使われたのは、この時が初めてだった。その後、昭和34年の皇太子御成婚、昭和36年の高崎市制60周年、昭和41年の高崎市制65周年と白衣大観音建立30年祭の記念行事として「高崎まつり」が行われた。昭和45年の高崎市制70周年記念事業など、特別な年に山車が出された。

 こうした事業の積み重ねで、高崎のお祭りには、山車が巡行するというイメージができてきた。昭和50年、高崎市制75周年で山車が出される予定だったが、「オイルショックでそれどころではない」と山車を出すような記念事業は行わないことになってしまった。

 ちょうどその年、高崎青年会議所は、市民の祭りとして郷土芸能祭りの計画を進めており、市民から山車を引きたいとういう希望もあり郷土芸能と山車の巡行を中心にした祭りに取り組んだ。高崎まつりの原点は、人を集める観光や商業的なイベントではなく、高崎市民の郷土愛や誇りの醸成による地域アイデンティティの確立にあった。行政の支援のない中で祭りを成功させるために若者が奔走した。町内や企業から寄付を募り山車を巡行させるため、参加をよびかけるのは大変な苦労だったという。

 ここに夏祭りとして「高崎ふるさとまつり」が誕生し、第11回目から「高崎まつり」に名称が変更され、来年には第40回目を迎えることとなる。

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