東日本大震災の傷跡
高崎市経済への影響と企業の対応
東日本大震災と同震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故による被害は、広範囲に及び復興、復旧が長期化している。長引く不況の中で、大震災が日本経済に与える影響について国は当初、被害額が25兆円、今後の経済活動への影響は2011年度で最大2兆7500億円を試算した。しかし、試算には福島第一原発事故による放射能被害や計画停電の影響を含んでおらず、影響額は確実に膨らみそうだ。
高崎市内では、大震災直後の混乱から一段落したものの、先行きの不安は続いている。これからどんな影響が出てくるのか、いつまで続くのか、見えない放射性物質が不安を助長しているように、状況がつかみきれないことが不安の連鎖になっている。
一方、自粛ムードから脱し、経済を元のように回復させることが日本の復興につながるんだという気運も高まってきている。
大震災や計画停電によって危機管理、労務管理など想定を超える対応を迫られた企業も多く、その取り組みをレポートする。
大地震、まさにその時の対応は
3月11日、午後2時46分に三陸沖を震源としたマグニチュード9の地震は、高崎市でも震度5強を記録し、市内で1,500件を越える家屋や塀の損壊などが報告されている。鉄道は運休し、高崎市内では広い範囲で停電となった。
午後の営業時間中だった「(株)スズラン高崎店」では、大地震の発生時に館内アナウンスを放送し、来店客を館外に誘導した。一部のお客様は、非常用の外階段で避難してもらった。非常階段でお客様を誘導したのは、同店開店以来、今回が初めてだったという。パニックになるのではと心配したが、冷静な対応が、お客様の安心につながった。
すばやく防災体制をとれた裏側には、震災訓練の取り組みがあったという。同店では火災訓練の他に、将来的な義務化を見通して震災訓練をいち早く取り入れており、渋澤彰一店長は「訓練が活かされ、後日お客様におほめの言葉をいただいた」と話す。エレベータの閉じ込めもなかった。お客様は、東側の駐車場や指定避難場所のもてなし広場に誘導した。お客様全員の退館と安全が確認し終わると、その日はすぐに閉館を判断した。
「スズラン」は女性販売員が多いこともあり、男性社員を除き、家族への気づかいや二次災害の心配から午後3時過ぎには女性社員を優先に帰宅させた。地震でJRが運休しているので、遠方の社員は、レンタカーを借りて乗り合いで帰宅したり、ホテルの宿泊などで対応した。判断が遅ければ、レンタカーやホテルの確保は難しくなっていた。
地震発生時、「高崎ビューホテル」にはパーティーの団体が一組と、9階にパーティー後に残った幹事グループが一組いた。強い揺れで一時は騒然としたが、お客様には冷静を呼びかけ、一旦テーブルの下に避難してもらった。エレベータが止まり、9階のお客様は階段で避難、パーティーのお客様は幹事さんの強い要望で、揺れがおさまるとパーティーを再開した。
11日の夕刻から、同ホテルでは宿泊の問い合わせで電話が鳴りやまなかった。まちなかのホテルは、どこも満室状態となっていた。一方、宿泊の予約客が入っているものの、来られないお客様もいた。確認を取りたくても東北地方には電話が通じなかった。
客室は満杯、問い合わせの電話は鳴り止まず、フロントにもお客様が並ぶ。「そのまま断って帰すわけにはいかない」と、伊丹伸治支配人は、高崎市役所まで避難所の状況を確かめに行き、収容できないお客様に情報を提供した。その忙しさから週が明けると一転、宴会場の利用の延期やキャンセルの連絡が相次ぎ、3月後半の宴会場の稼働は、前年の3割程度まで落ちた。
常日頃の防災訓練が活かされた事業所は多い。「ニップン冷食(株)高崎工場」や「(株)新川屋高崎工場」では、地震が発生すると、従業員は工場外の指定避難場所に集合し、余震が落ち着くのを屋外で待った。点呼による人員確認や火元の確認を実施し、揺れによる被害は軽微だったため、その日から操業を継続できたという。
米食を製造する「新川屋高崎工場」では、2時間の遅れを取り戻し順調に出荷できたものの、地震による交通事情の悪化で、時間までに客先に納品ができない状況もあったという。翌12日にも発生した余震では、関澤工場長の故郷長野県栄村が壊滅的な被害を受け、いなり寿司3千個のほか、会社や従業員が準備してくれた支援物資を届けた。被災地では、その日に食べる食料がない状態だった。同社では日立市にも支援食糧を送っている。
大震災の渦中でガソリン輸送
ホクブトランスポート(株) 梅山社長
東北地方に事業所を持つ企業は、現地との連絡が取れなくなり、不安が募った。
燃料輸送を東日本全域で展開する「ホクブトランスポート(株)」は、仙台支店が被災したほか、3台のタンクローリーが被害にあった。沿岸部を走っていたタンクローリーが乗務員ごと津波に巻き込まれたが、乗務員は幸運が重なり奇跡的に生還したという。通信が遮断し、配送中に消息がわからなくなった社員もいたが、車が流され何10キロも歩いて支店にたどり着いた。「本当に運が良かったに尽きます」と梅山立之社長は、社員全員の無事に胸をなで下ろした。
大震災直後に始まった燃料・灯油の供給不足は、同社に休むいとまを与えなかった。被災地はもとより、関東一円で、燃料供給がマヒし、市内ガソリンスタンド周辺では、どこも給油待ちの大渋滞となった。1時間、2時間待って20リットル給油してもらう状況に、燃料輸送が産業と生活を支える極めて重要なインフラであることを、身をもって知らされた。
同社では、「国家的な危機の中で、震災復興をこの手で支えたい」と、全社一丸となった。地震発生から3週間、梅山社長は会社に詰めっきりで、半日休んだだけだったという。東北地方の被災地では道路が分断され、輸送ルートの確保もままならない。日本海側を北上し、奥羽山脈を横断して太平洋側にたどり着く。燃料を届ける先々で、「本当にありがとう」と感謝とねぎらいの言葉が乗務員を迎えた。社員の志気が上がり、全くの無事故でこの難局を乗り越えた。
「紙不足、湾岸倉庫の損壊が影響」
スギウラ(株) 杉浦社長
「紙が無くなる!」。東北地方の製紙工場が被災したことで、ウソかマコトか真偽のはっきりしないまま、消費者はトイレットペーパーやコピー用紙まで買いだめする状況にも陥った。紙卸「スギウラ(株)」の杉浦幸男社長が手にした写真には、被災した製紙工場と、直径1メートル程の大きなロールが津波で散乱している、おびただしい場内の様子が写っていた。
「大震災で東北の製紙工場が被災し、国内で見ると15%の生産能力を失った」と杉浦社長は言う。また紙の国内消費の約半分は、出版社や大手企業が集中する東京で、東京湾岸の倉庫には、船で運ばれた莫大な量の紙の在庫が置かれているという。この倉庫が大地震で被災した。震災直後は、在庫がどの程度被害を受けているか把握できず、液状化現象で、倉庫内にフォークリフトが入ることもできなかった。また、地震後数週間は、在庫があっても、燃料不足で、倉庫から各地に輸送できない状況でもあった。供給体制が崩れてしまったのだ。
大震災による、紙の供給不足は、一年で最も印刷需要、紙需要の高い年度末の時期にぶつかった。「スギウラ」では、高崎から在庫のある都内各地の倉庫までトラックで紙を取りに行き、何とか納品を間に合わせた。価格面では、値段を釣り上げるようなこともなく、適正に流通しているという。普段からの取り引きで築いたお互いの信用が、いざという時に助け合う力になると考える。
杉浦社長は「リーマンショックの時に、需要が2割落ちた経験がある。大震災で東北の製紙拠点を失ったが、市場をまかなう国内生産力は持っている。世界的に深刻な状況となったオイルショックの時とは違う」と話す。特殊な専用紙や、銘柄を細かく指定せず、同等品でよければ、十分に供給できるそうだ。4月中旬の段階で、一部の品種以外は紙全体としては既に余剰していると見る。
しかし大震災の影響で、「売上の減少がはっきりと見えている」と杉浦社長は言う。東北、関東だけでなく、関西、九州までイベントが中止になり、予定していた印刷物がバッサリとキャンセルされている。大手広告代理店も、夏までの主だったイベントのキャンセルが相次いでいるという。これに伴ってパンフレットやチラシなど、ロットの大きな仕事が無くなる。これから6月、7月がどのような流れになるか「正直言うと不安も多い」と杉浦社長は話す。自社の在庫を増やし安定供給を行うことは客先との信頼につながるが、デッドストックのリスクを抱えることになる。判断が難しいところだ。
「無いのは再生紙」
臨海プラントの被災は、様々な産業に影響を与えている。茨城県や千葉県の臨海工業地帯が被災したことで、印刷業界は、インクの溶剤などが不足して困っている。インクそのものはあるが、添加剤が不足している現象だ。ある溶剤については、国内シェア100%のプラントが、向こう1年間、稼働できない状況だという。
杉浦社長は「鹿島が被災したダメージは、製紙業界にとって深刻だ」と強い危機感を持っている。古紙を再生する過程で、紙とインクをはく離する界面活性剤や古紙を白くするために用いる漂白剤が生産できなくなった。製紙メーカーは表向き「なんとかできる」とコメントしているようだが、現場では疑問の声が上がっている。現実問題として、再生紙がひっ迫しているのだ。
自治体など公的機関は、環境負荷が出来るだけ小さい物品を優先して購入する「グリーン購入」が徹底され、再生紙でなければ納入できない。一方、製紙メーカーは、再生紙生産が思うようにならず、注文しても応じられない状況に及んでいる。「非常事態なので、当面はグリーン購入の枠を緩めてほしい」と、紙業界として、公的機関に強く要望していきたいと杉浦社長は取り組んでいる。
「ニップン冷食高崎工場」では、今のところ原材料の納入は問題ないが、製品のパッケージに用いるフィルムなど包装材が、今後心配だと井本俊治社長は話す。
商品流通は数週間で回復
東北のLPガス供給が心配
商品の流通にも影響が出た。消費者の買いだめの動きは、同じ日本人として、しゅう恥の気持ちを持って見ていた人も多いのではないだろうか。
「スズラン高崎店」では、米、パン、カップラーメン、ヨーグルト、納豆、缶詰、ペットボトルの水などが品薄になった。缶の供給が不足した影響で、缶ビールも入りにくくなった。地震後は、湯たんぽと保温性の機能肌着が売れた。防災グッズ、懐中電灯、乾電池がすぐに売り切れた。携帯電話のソーラー充電器も品切れになった。毛布の需要もあったそうだ。
ガソリン不足の陰に隠れて話題になっていないが、東北地方ではこれから、LPガスの供給に不安があると、「ホクブトランスポート」の梅山社長は心配している。東北地方の心臓部といえる仙台のLPガスターミナルが被災し、当面の稼働が難しい状況に陥っているという。同社では、関東から応援のローリーを向け青森・新潟でLPガスを積み、太平洋岸の被災地域にLPガスを供給している。同社の仙台支店からなら太平洋岸の各地までこれまで一日に数往復できたが、青森・新潟からでは、1日に1往復程度に稼働が落ちる。
今後、仮設住宅の建設が進みLPガスの需要が増えるのは明らかで、「これからの供給が追いつくのか心配される」と梅山社長は言う。LPガス市場は、長期的に見れば縮小傾向にあり、企業経営としては、LPガスの輸送部隊を増強するのは得策ではないが、「被災地の生活や復興を考えると、今ここで当社が動かなくてはいけない。フル稼働して、全力で取り組めば地域貢献になる」と考え、大型タンクローリーの増車にも踏み切った。
地震後の大打撃―「計画停電」
(株)新川屋高崎工場 関澤工場長
大地震から3日後に始まった計画停電は、もう一つの震災と呼べるものだった。
「新川屋高崎工場」の、いなり寿司や米飯などの製造工程では、米飯を炊く前の仕込みに3〜4時間、炊いた後の放熱など後工程にやはり2時間程度かかる。停電時間を含め前後8時間の作業を調整しなければならなかった。「計画停電はこたえました」と関澤丈工場長は言う。
計画停電の時間帯が毎日変わり、当初は停電実施の発表もギリギリまで分からなかったため、従業員のシフトにも苦労した。朝、スーパーが開店する時間には商品棚に置かれていなければならない。「出荷時間が決まっている日配品なので前倒しでの生産もできないし、遅れることもできない」と苦しかったようだ。実際に計画停電が実施されないことも多かったが、「停電することを前提にスケジュールを組んだ」という。
「八木工業(株)」でも、熱処理の電気炉など、停電の前後3時間は、製造ラインを止めなければならない場合がある。震災が発生した11日は、社員の安全と停電もあり終業し全員を帰宅させた。
「ニップン冷食高崎工場」は、数日間は停電時間を避けて深夜の時間帯にシフトした。冷凍庫内はマイナス22〜23度で、3時間程度であれば、庫内の温度維持は問題ないという。仮に夏場であっても、庫内の製品に支障はないそうだ。検査機器やコンピュータの電力は自家発電でまかなっている。
「高崎ビューホテル」では、計画停電によって、婚礼や宴会のお客様は断らざるをえなかった。「ご宴会、パーティをやろうと思えば、できないことではなかったが、お客様の安全やサービス面を考え苦渋の判断をさせて頂きました」と伊丹支配人。
例年であれば、3月・4月は歓送迎会を始めとした宴会需要期。停電時間によっては宿泊客に、朝食を提供できないこともあった。サンドイッチを召し上がっていただくなど「できることを精一杯やるしかない」と心をこめた。
(株)スズラン高崎店 渋澤店長
停電は、コンピュータシステムにも影響する。「スズラン」のコンピュータシステムは、売場のレジや在庫システムをネットワークし、カード決済やポイントなどの情報を管理する。システムの起動、シャットダウンにそれぞれ50分から1時間かかるため、遅くても停電の1時間前には閉店しなくてはならない。計画停電が行われることを前提に準備し、実施しないとわかったら、営業を続けることにした。コンピュータが起動するまでは、現金による買い物に限らせてもらった。「いったん閉館すると、再開しても入店客は伸びなかった」と渋澤店長は振り返る。
ガソリン不足も、客足に影響し、地震後1週間は、売上が前年比30%台まで落ち込んだ日もあり、平均で前年比50%台で推移した。地下食品売場では、準備する惣菜の量を見極めるのが難しかった。地震発生の翌週には、ほとんどの商品で入荷が安定したが、品揃えのある午前中を狙った買い物客が増え、しばらくの間は夕刻の買い物客が減っていたという。夕方からの惣菜セールの売上にも響いた。
農産物や米、原発事故の影響は
ニップン冷食(株)高崎工場 井本社長兼工場長
食品では、福島第一原発事故による放射性物質の影響が心配されている。農畜産物とともに水への影響も関心が高い。「ニップン冷食高崎工場」の井本社長は「高崎の水に影響が出れば、工場が成り立たなくなくなる」と原発事故の推移に注目している。
「新川屋高崎工場」では、地下130mから自社でボーリングした地下水を使用しており、早急に検査をした結果、安全だった。これからも定期的に水の検査は継続していく。
関澤工場長は「原発はいつになったら収束するのか」と心配そうだ。東北地方の農家の状況、原発事故によって福島県での米の作付けが難しくなったことなどから、今シーズンの米価の動向を気に掛けている。同社では、その年に応じて良質の米を選定しているが、大震災による東北地方の作付け状況が日本全体の米価に影響を与えることが心配だ。「原材料の値上がりを販売価格に転嫁することは難しい」と工場長は言う。
停電シフトで「経費増は覚悟」
会社が一丸となって難局を乗り切る
計画停電では製造業を中心に、勤務時間を早朝や深夜にシフトして対応する動きが多かった。
高崎ビューホテル 伊丹支配人
「高崎ビューホテル」も勤務体制では問題がないものの、3月までの落ち込みには、社員を上げて対応した。アルバイトやパートを調整し、室内清掃、ベッドメイクを社員が行った。ベッドメイクのポイントやコツを、社員に再教育する必要もあった。「人手が足りない部門を助け合い、ローテーションはうまく行った」と伊丹支配人は振り返る。
八木工業(株) 八木社長
「八木工業」では、計画停電によって終業を切り上げた勤務時間を土日曜などに振り替えるなど、社員の協力が得られている。計画停電の実施発表が遅かった当初は、電話の連絡網で「労使一体となって対応した」と八木社長は言う。しかし、震災の影響で、4月、5月の受注は前年対比で5割から6割に落ち込んだが、夏から秋以降の回復を見込み、需要が増えた場合の準備を行っている。「一昨年のリーマンショックの時の事を考えれば乗り切れる」と八木社長は言う。
東北地方への配送が日本海経由となり、輸送コストが震災前に比べて大きくなった「ホクブトランスポート」は、新潟支店の開設を準備する一方、「ライフラインのコスト負担を軽減する対策も必要ではないか」と指摘する。
今回の取材では、計画停電によって、深夜や早朝に勤務時間をシフトした場合の人件費増を覚悟しているという企業は多かった。国難を乗り切るための企業努力の一つとしてとらえているようだ。勤務時間のシフトに対して従業員も協力的で、「被災者の悲しみや苦労に比べれば」といった気持ちが労使ともに共有されている。
戻り始めた消費マインド
「スズラン高崎店」では、3月下旬から徐々に客足が戻り始めた。震災後、買い控えが顕著だったのが高級婦人服やトラベル関係、ギフト商品だった。行楽も自粛し、消費マインドが減退していた。ヤング向けの商品は立ち直りが早かったという。4月初旬以降は、前年並み、分野によっては前年越えで、3月の買い控えが良い意味で反動しているという。「光が射してきた」と渋澤店長は言う。
「高崎ビューホテル」でも、個人のお祝いや法事などの宴席は回復している。大会や研究会など既に中止を決めた団体客の需要は当面の間は低いだろうと見ている。
自粛ムードに乗り、行き過ぎた便乗自粛の傾向もあった。企業活動が元気になり、市場マインドを上げていくことが復興につながるというのが、今回の取材の共通した意見だった。八木社長は「消費を停滞させたら被災地のためにならない。普段通りの生活をするのが大切なのではないか」と話す。
電力25%削減に対応
電力の供給不足に対応した25%削減に、様々な取り組みを行っている。
「八木工業」では、電力ピーク時の操業を避け、早朝や深夜に勤務時間をシフトする予定だ。「ニップン冷食高崎工場」でも、勤務シフトとラインの一部稼働停止でしのげると考えている。
「高崎ビューホテル」は、照明のLED化や空調の温度設定などで節電に取り組んでいく。サービス業の場合は、節電とお客様サービスの頃合いが難しい面もある。
「スズラン高崎店」では、タワーパーキングの使用をやめ、平地の自営駐車場だけを使っている。特約駐車場に流れるため金銭的な負担は増えるが、「止むを得ない」と考えている。館内ではエスカレータ1基と、4階連絡通路の動く歩道を停止し、節電を行っている。照明も間引いているが、商品が見にくいという顧客の声もあるという。
同店で最大の懸案が空調だ。夏場の冷房では、業界全体の取り組みもあり、館内温度を上げてきた。昨年は、来店客から館内が暑いとクレームがついたこともあり、渋澤店長は、「温度設定による節電は限界だろう」と見ている。空調の設定は維持して、節電ができるような工夫、努力を考えている。現在、実験期間として取り組んでおり、25%には届かないものの、達成の目処がつく数字が出ているという。現在は実験期間が終了し、エスカレータと動く歩道は動かしている。
難局を乗り切る力と覚悟
誰もが予想しえない甚大な被害をもたらした東日本大震災。企業経営にも危機感が募る一方で、試練が企業を強くしている。トップの危機管理力とリーダーシップが求められた。
「ホクブトランスポート」の梅山社長は「迅速で的確な判断が重要だと痛感した。大震災を機に社内が一枚岩になった」と力を込める。「新川屋高崎工場」でも、工場長以外に新潟の本社から社長や経営幹部が工場に詰め、陣頭指揮をとった。地震直後の携帯電話がつながらない状況の中、「スズラン高崎店」では携帯内線電話が威力を発揮した。渋澤店長の指示がスムーズに伝達でき、迅速な対応ができたと振り返る。
大震災の経験を企業経営に生かしていくことも必要だ。
「ニップン冷食高崎工場」の井本社長は、粛々とした対応の中で「みんなで知恵を出し合っていく。状況の変化に適応する力、“適応力”が求められるだろう」という。「八木工業」の八木社長も「どういう世の中になっても生き残るため、環境に適応するのが企業の使命」と、状況に対応していく企業力を強調する。アジアやアメリカ向けの輸出は現状では落ちておらず「海外市場もしっかり見ていきたい」と考えている。
「高崎ビューホテル」の伊丹支配人は「もともとホテルは“おもてなし”を意味するホスピタリティーが発端。もし高崎が被災したら、市民を受け入れる体制はできている」と話す。ホテルマンとしての原点を再確認する機会にもなった。
3・11を境に国民の気持ちが変わり、みな自身のライフスタイルを見直し始めた。八木社長は「震災をきっかけに失っていた日本人の気持ちを取り戻しているのではないか」と言う。
「まだ、一息つけないですね」と杉浦社長は取材の最後に付け加えた。