銚子でみつけた高崎
庄川杢左衛門の頌徳碑の前で「じょうかんよう節」を演奏する高橋和衛さんと古田葉子さん。土屋喜英さん(市文化財調査委員)は調査目的で銚子を訪ねている。後方の石碑は1988年建立された口語文の碑。
先月のことだが、朝日と毎日の群馬県版に「飛領地の銚子訪れ交流」という見出しの、かなり大きなスペースで写真入りの高崎史志の会(遠藤潤会長)というグループが銚子を訪問したという話だ。
この記事はある程度の高崎の江戸時代の知識がないと、さっぱりわからない。
新聞を斜め読みする人にとっては、記事量は多いのだが、関係ない事として、通り過ぎてしまうので記憶にない人が多いはずだ。
別掲の高崎藩に関する解説は、最近各地で流行っている、「ご当地検定」の「高崎学検定」の問題のような話だが、この際高崎と銚子の交流の跡をたどり、改めて銚子との交流を考えてはいかがだろう。
(高崎商工会議所小売部会長 根岸 良司)
ある高崎藩の侍の話
千葉県銚子と高崎のあいだに何らかの因縁があり、歴史的な関係のあった事を正確に知る人は、それほど多くない。
高経大の高階勇輔名誉教授の紹介などで、何となくではあるが、折にふれて銚子という名前が出てくるのに気づいている人はいる。銚子からも、それほど多くはないが新聞などを通して情報は伝わってくる。
この銚子との因縁は江戸時代の話で高崎藩の事だ。そして舞台は銚子。登場人物は高崎の人だが、正確な事は、今のところ全くわかっていない。肝心の高崎藩の職員録に相当する分限帳にもないらしい。
この主人公庄川杢左衛門は、今でいえば高崎藩の支庁である陣屋に代官として派遣されていた人物で、天明大飢饉の際に領民が難渋するのを見かねて、銚子にある藩の米倉を開いて領民を救済したといわれる人物だ。
その後、庄川杢左衛門は独断専行の責任を問われ自刃したという伝説となっている。しかし、この話は高崎藩の記録にはなく、僅かに銚子の庶民のあいだで伝承されてきたものである。
庄川杢左衛門の碑は残った
時代劇に出てくる代官は悪人ばかりだが、高崎藩の代官はそうではなかった。代官庄川は再度にわたり通算1、000俵以上の米麦と金子(きんす)を村々に分け与えて、領民十七ヶ村20、000余人がだれ一人として餓死することなく助かった。
碑文にはこの経緯が刻まれていて、寛政2年に57歳で病死したとある。この病死なのか、伝説の自刃なのかは不明だが、庄川の三十三回忌に碑は建立された。
民謡が残り小説も残った
庄川の頌徳碑ができたころから唄われるようになったと伝えられているのが「じょうかんよう節」だ。
一、様に三夜の三日月様は、宵にちらりとみたばかり。
一、胸に手をあて庄川様は、人のためなら是非もない。
一、許しえずして米倉開きお役ご免で自刃す
この唄は昭和40年ごろまでは一番しかなく盆踊りの時は他の盆踊りにはさんで唄っていたようだが、その後十番までみつかり今日唄われているようだ。
この他昭和63年には小説も出版された。庄川の伝記は部分的なものが残るだけで謎が多く小説に向いているのだろう。著者小松茂朗氏は取材で来高して市職員林英敏さんが対応。
民謡、小説以外にも民話もあり戦前の小学校の副読本にもなった。
江戸時代の高崎
■高崎藩
高崎松平家の石高は8万2千石。領地は現在の高崎市周辺の他に3ヶ所の飛領地があった。高崎周辺が約5万石で現新潟県三条市の一の木戸、現埼玉県新座市野火止、千葉県の銚子市の三ヶ所の合計が8万2千石となる。
徳川時代には領地が一ヶ所にまとまっているケースはまれで、たいていの藩で飛領地があった。
■庄川杢左衛門(しょうかわ・もくざえもん)
天明の大飢饉(1782-87)の際、銚子の飯沼陣屋の代官だった高崎藩士。生没年は不詳。
銚子領民を飢饉から救うため独断で藩倉を開き米麦と金品を分け与えたといわれている。これらは庄川の責任においてなされたので、その罪を負って自刃したといわれているが病死説もある。庄川の子孫に心あたりのある人の情報を待っています。(私が庄川の子孫だという人は名乗り出てください。)
■庄川杢左衛門 頌徳碑
銚子市高神地区の切り通しの一方の台地にある石碑。庄川没後33年の文政6年(1823)に名主の加瀬新右衛門と村民がひそかに追慕謝恩のため建立した。後方石碑は1988年小川町の高橋作右衛門氏により建立された口語文の碑。
台地への階段の修復と新設された手摺の新設工事は今年2月に施工された。
■じょうかんさま・じょうかんよう節
じょうかんは庄川が訛ったものか代官の上官なのかは不明。無用の官吏を意味する冗官も考えられるが、庄川様の徳を慕う民謡なので当時の支配体制から公儀をはばかってじょうかんになったものか。
じょうかんよう節は盆踊りに取り込まれて今日まで伝えられている。
■飯沼陣屋
現在の銚子市陣屋町に高崎藩の陣屋「飯沼陣屋」があった。高崎藩飛領地となったのは享保2年(1717)から、その支配地は現銚子市のほぼ全域にまたがり、石高は約五千石。現在は陣屋跡の一部が公園となり、陣屋史跡記念碑が地元名雪育男さんらの手で2007年建立された。