高崎新風土記「私の心の風景」

橋の風景から⑧ ―弁天橋―

吉永哲郎

高崎新風土記「私の心の風景」

 市立矢中中学校の北側を野川が流れています。近年土地開発が進み新しい道路や橋ができました。その一つが弁天橋で、平成12年8月完成の新しい橋です。野川とはいえ粕川と名をもつ川で、榛名山を源流にした井野川の支流の一つです。
 矢中町は、長篠の合戦で活躍した矢中七騎の名をとった地名といわれます。矢中七騎は中世、この地に住んでいた地侍です。明治初期の矢中町はケヤキやカシの木の大木が繁り、竹藪が狭い道を覆い昼でも暗く、雪の日にはその竹が道を覆い、まるで雪のトンネルを抜けるようにして通ったと、伝えられています。50年余り前のことですが、一メートルたらずの狭い道を歩いていきますと、「七曲り」といわれる道があって、中世の地侍が住んでいた屋敷跡を感じたものです。
 久方に大河ドラマの影響ではありませんが、「矢中七騎」の騎乗する地侍の姿を求めて矢中町を歩きました。町の風景は以前と一変し、別の町空間を歩いているようでした。それでもと、変わらぬ風景を求めて歩くうちに、弁天橋の上に立っていました。そこからの粕川の流れの風景は、元のままでした。せせらぎの音を耳にしますと、ふとこのあたり、「お米とぎやしょか 人取って食いやしょか ショキ ショキ」としわがれ声の「あずきとぎ婆様」がいたところだと、思い出しました。