高崎新風土記「私の心の風景」
新町宿・神流川冬景色
吉永哲郎
新町宿が高崎市になり、中山道の上州八宿のうち三宿(新町・倉賀野・高崎)が高崎市となりました。このことによって、これまでの烏川・碓氷川・鏑川に加えて、神流川が高崎とかかわる川になりました。神流川は多野の山中から流れる清流で、中山道まで武州(現埼玉県)と上州の境を流れる川です。夏には空色をした清流の姿が見られますが、冬になりますとその姿が細くなり、時には涸れて、奥秩父や多野の山なみを西に、荒涼とした川原の風景が、中山道新町宿の神流川橋から眺められます。私はこの神流川冬景色の夕陽のドラマに魅せられ、十二月の夕暮れ時によく訪れます。そして、本能寺の変で倒れた織田信長に思いを馳せます。
天正十年武田勝頼自刃後、織田信長は家臣の柴田勝家を北陸、羽柴秀吉を中国、滝川一益を関東へ配置し、天下統一を目指します。滝川一益は、武田父子を攻めた時の信長・家康連合軍の先鋒を務めた武将です。一益はまずは箕輪城に下向、その後厩橋城に移り、信長の関東支配の拠点のひとつとして固めます。ところが一益が上野に入封して間もなく、本能寺の変で信長が倒れます。ただちに主君信長の弔い合戦のために上洛しようと一益は行動を起こしますが、これを阻止せんと小田原の北条氏直、武州鉢形城主北条氏邦連合軍と一益軍とが、この新町の神流川原で大激戦となります。これが世にいう「神流川合戦」です。一益軍は敗北します。
枯れ薄の葉擦れの音に混じって「人間五十年下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」と、幸若舞「敦盛」の一節が聞こえます。茶と舞を愛した信長・一益主従が草むらで口ずさみながら舞っているのでしょうか。
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