高崎音楽祭・高崎マーチン グフェスティバル25周年
1990年秋、高崎は「音楽のある街」になった
第1回高崎音楽祭「アルゼンチンの風」
高崎音楽祭、高崎マーチングフェスティバルが誕生して25周年を迎えた。1990年、高崎市制90周年の年に始まったこの二つのフェスティバルは、高崎の秋を彩る風物詩となり、音楽を通じたまちづくりと市民参加、にぎわいづくりの新しい手法など、高崎の都市文化に大きな役割を果たしている。
「商工たかさき」 2014/9号より
■■高崎音楽祭■■
●高崎の新しい都市文化を創造
高崎音楽祭は平成2年(1990)に高崎市制90周年のメインイベントとして11月中旬から12月下旬にかけて行われた。市制90周年から平成12年(2000)の高崎市制100周年に向け、十年間にわたるまちづくりイベントが構想され、高崎音楽祭はその大きな柱だった。
高崎音楽祭の目的は、第一に国際的な音楽イベントを通じて「音楽の街高崎」を創造する、第二に、21世紀と高崎市制100周年に向かって「交流拠点都市たかさきの創造」をテーマに新しいまちづくりをスタートさせた高崎市を内外にアピールする、第三に音楽祭に招へいしたアーティストとの文化交流をはかり、高崎の新しい都市文化と市民文化の創造をはかる、というものだった。
●「音楽のあるまち高崎」のシンボルイベント
「音楽のあるまち高崎」は、高崎音楽祭で初めて使われたフレーズだ。群馬交響楽団を有する高崎は、それまでも音楽を打ち出して「音楽のまち」、「オーケストラのまち」などの表現を使うことはあったが、統一されていたわけではなかった。高崎音楽祭は「音楽のあるまち高崎」を定着させ、そのシンボルイベントとして市民に浸透した。
●高崎で新しい音楽シーンを創造
全国の音楽祭がクラシック音楽を中心としている中で、高崎音楽祭は群馬交響楽団や高崎ゆかりの音楽家を軸に据えながら、枠にとらわれずポップスやジャズ、ワールドミュージックなど幅広いジャンルのアーティストを取り上げ、高崎から新しい音楽シーンを創り出してきた。
全国ツアーの一環で行われるパッケージコンサートではなく、高崎音楽祭独自のプログラムづくりに力を置き、群馬交響楽団と様々なジャンルのアーティストとの共演を始め、ここでしか聞けないコンサートが企画されてきた。市民の音楽活動と連携しながら、トップアーティストによる水準の高い音楽を常に中心に置いている。
高崎音楽祭は音楽ファンに高く評価され、第1回と第2回連続の公演となった「アルゼンチンの風」は音楽センターで立ち見が出るほどの人気で、来場者に大きな感動を与えた。
第3回はウィーンフィルを高崎に迎え、群響とウィーン、プラハの交流のきっかけとなった。第4回は沖縄音楽を取り上げた。東京以外で沖縄音楽をテーマとした音楽イベントが開催されるのは高崎が初めてで、県外からも大勢の観客を集めた。
また、第5回に出演したラテン音楽の重鎮・カルロス菅野は、高崎音楽祭の一夜限りのセッションに触発され、その時のステージメンバーを中心に新しいバンド「熱帯ジャズ楽団」を結成し、その後も高崎音楽祭との交流が続いている。トップアーティストの心をも揺り動かす音楽が高崎音楽祭の中にあったことを示すと言えるだろう。
高崎音楽祭は、既に評価を得ているアーティストだけではなく、これからのトレンドや若い才能にも着目し、デビュー間もなく無名に近かったゴスペラーズを招くなど、音楽シーンを先取りする面も見せている。
音楽祭が計画された頃は既に、群馬音楽センターのステージ施設の限界から、高崎でポピュラー系のコンサートがほとんど開催されなくなっていた。高崎音楽祭は、高崎で質の高いポピュラー音楽を聞くことができる数少ない機会でもあった。音楽センターの施設制約の中でのコンサート運営は、高崎音楽祭の宿命的な側面であったが、逆に音楽祭の広がりを創造する力にもなっていた。
■■高崎マーチングフェスティバル■■
●そもそもの発端は「直観」
第3回マーチングフェスティバル
昭和63年(1988)から平成元年にかけ、高崎青年会議所(以下JC)はメンバーの堤志行さんを中心に、高崎市制90周年の記念事業としてマーチング大会の開催を決めた。マーチングが日本に広まり始めた頃で、堤さんは「マーチングバンドを通じて高崎の教育やまちの活性化がはかれるのではないか」と可能性を直感したそうだ。
高崎JCは堤さんを旗頭に、マーチングを学校に取り入れるよう高崎市にかけあった。当時の高崎市教育委員会の茂田教育長は「それはおもしろい」と賛意を示し、四年をかけ全ての小学校に金管バンドを作ることを決めた。
堤さんは神戸市で行われた第2回全日本マーチングコンテストに加え、アメリカ・カリフォルニア州パサディナ市で元旦に行われるローズ・パレードを視察に行った。ローズ・パレードは、1890年に始まった全米屈指の大パレードで、高崎マーチングフェスティバルのモデルとして堤さんの目に焼き付いた。
●最初の説明会には誰も来なかった
高崎JCを中心に、高崎マーチングフェスティバル実行委員会が誕生した。中央公民館で最初に開いたマーチングフェスティバルの説明会は参加者はゼロ。これは大変だと、実行委員会は高崎市内の全校を回って説明し参加を呼びかけた。
「マーチングって何?」というのが学校の先生方の最初の反応だった。初めの頃のマーチングバンドは運動会の「鼓笛隊」に少しずつ金管楽器を加えて編成していったので、鍵盤ハーモニカを主体にした小学校も多かった。一方、マーチングは、原型となる軍隊の行進や訓練のイメージから、子ども達が参加することに反対する声もあったという。
「子ども達がパレードするのだから、なんとか服装をそろえたい」と、どの学校も知恵を絞った。現在の様な各校の映えるユニフォームは回を重ねてからで、最初は体操着を使うことが多かった。それでも担当の先生は、保護者や地域と協力し、みんなでアイデアを出した。たすきやスカートを各家庭で手づくりしてそろえ、ガードの旗竿が足りなくて、ものほし竿にビニールテープを巻いてあつらえた。その後、PTAバザーの売上をユニフォームに充てるなど、地域ぐるみで子どもたちのマーチング参加を応援する動きが出てきた。
●日本一のマーチングシティにしよう
第1回高崎マーチングフェスティバルは、平成2年10月21日、晴天のもとで開催され、24団体、1,386人が参加した。高松中に集合し、パレードコースは高崎市役所前(現在もてなし広場)をスタートし、大通り、田町を経て戻るコースで、当初は城南球場の使用も許可してもらえなかった。現在のコースを確立したのは、開通したシンフォニーロードをパレードした第4回からだ。
午後1時30分、開会式に続いて、パレードの先頭をつとめる高崎商科短大附属高校(現高崎商科大学附属高校)がファンファーレを演奏し出発した。沿道から拍手と歓声がおくられ、フェスティバルは大成功となった。開催後「高崎を日本一のマーチングシティにしたい。新しい市民運動として全市に広げていきたい。市制100周年まで継続してほしい」と堤さんは当時の松浦幸雄市長に訴え、理解してもらったという。
翌年は市内高校吹奏楽部への新入部員数が最高記録となり、誰よりも先に子ども達がマーチングを受け入れたことを証明した。マーチングフェスティバルは、当初から子どもたちの講習に力を注ぎ、熱心な指導を続けている。回を重ねるごとに豊岡小が頭角を現し、東部小、塚沢中、農大二高が全国トップの結果を出すなど高崎は全国レベルの常連となった。
■■2つの音楽イベントがもたらしたもの■■
●ストリートが音楽の舞台になる
第6回高崎音楽祭「ゲリラライブ」
高崎マーチングフェスティバルのパレードは、まちなかに音楽があふれる「音楽のあるまち高崎」を具現化した。数万の観衆がパレードを楽しみ、まちを音楽の舞台にした功績は大きい。
まちなかでストリートライブを行い、まち全体を音楽で興奮させたのが第6回高崎音楽祭だった。招へいした東京スカパラダイスオーケストラが日曜日のまちなかに突如として出現しゲリラライブを繰り広げた。ゲリラライブの移動とともに、数百人のファンが追いかけていくという凄まじいストリートパフォーマンスだった。また、この年はアカペラのストリートライブや、美術館や少年科学館プラネタリウムなどを会場にしたコンサートも実施し、様々な場所で音楽を楽しませている。
高崎駅西口の日通跡地における高崎音楽祭野外特設ステージは、高崎を訪れる人を楽しませ「音楽のあるまち高崎」をPRした。音楽祭を通じて若者が集まるまち高崎を演出し、ストリートの若いミュージシャンに市民権を与え、現在の音人祭りなどにつながる広がりを作った。
●全国からマーチングファンが高崎に
市制95周年を記念する第6回で、初の海外招へいとして英国近衛軍楽隊が来高。第7回は世界ナンバーワンバンド、米国・ブルーデビルズを招き、北海道から九州まで全国のマーチングファンが高崎に集まった。第9回のトルコ軍楽隊も市民に大好評だった。
第15回はマーチングフェスティバル史上最大の大会となりDCI(Drum Corps International)チャンピオンとなった世界ナンバーワンバンド、“キャバリアーズ”を招へいすることができた。キャバリアーズの来日をリリースすると全国から問い合わせが殺到した。
今年は2013年DCIチャンピオンのキャロライナ・クラウンを招へいし反響は大きいそうだ。7月に販売した前売り券は数分で完売。キャロライナ・クラウンによるバンドクリニックには沖縄からの申し込みもあった。
世界のトップバンドから子どもたちが学んだものは大きく、高崎から全国、世界をめざす子どもたちが現れた。高崎マーチングフェスティバルは国内有数の大会となり、出場を希望するバンドも多いそうだ。
●連携で相乗効果
当初、11月下旬に開催されていた高崎音楽祭が、第5回から高崎マーチングフェスティバルと同じ10月に開催することになり、二つのフェスティバルが一体的なものとなった。運営組織は違うものの、二つのフェスティバルは同じ年に生まれた姉妹イベントで、同時期に開催することで市民の関心も高まった。まちづくり、ひとづくりが二つのフェスティバルの役割として大きくクローズアップされるようになった。
高崎音楽祭と連携しながらマーチングフェスティバルの海外バンドの招へいを成功に導くなど、音楽面での協力はもとよりマーチングパレードに集まる数万人の観客をまちなかに回遊させるための取り組みも重視されている。
連携は二つのフェスティバルにとどまらず、高崎映画祭、商都博覧会、光のページェント、人情市、キングオブパスタなどに広がっている。市制100周年の年にマーチングが大好きな子どもたちによって結成された高崎テクニカルリーダーズは、まちなかイベントやセレモニーのオープニングファンファーレをつとめ、来場者を大いに楽しませている。
高崎映画祭が音楽祭などと連携し、関連映画の特集上映も企画されてきた。平成25年に音楽祭と映画祭が連携した二日限りの「高崎電気館復活祭」が一つの契機となり、高崎電気館が高崎市地域活性化センターとして本当に復活することになった。
●群響の東京公演、ラジオ高崎も音楽祭がきっかけ
第1回高崎音楽祭のメインステージとなった群響のタンゴシンフォニーは、東京北区王子「北とぴあ」でも公演され、東京公演は翌年以降5年間にわたって継続された。東京駅での「とうきょうエキコン」への出演もあり、東京での群響の評価が高まった。
平成9年に開局したラジオ高崎は、その2年前の第6回高崎音楽祭で実験したイベントエフエム放送が発端となっている。音楽祭期間に合わせた限定放送で出力も小さく、手作り番組だったが好評で、同年に発生した阪神淡路大震災でコミュニティ放送局が活躍したこともあり、放送局常設への動きが強まったことが、ラジオ高崎開局へとつながった。
■■市民が大規模フェスティバルを実現する■■
●4年間で4つの大イベントが市民主導で実現
高崎音楽祭、高崎マーチングフェスティバルが始まった時期、1990年を前後して、高崎を代表し、現在まで続くフェスティバルが市民に力によって生み出されていた。
高崎映画祭の誕生が昭和62年(1987)、全日本選抜車椅子バスケットボール大会が昭和63年、音楽センター周辺で開催されるスプリングフェスティバルが平成元年(1989)に始まっている。開催までの準備期間に数年かかるとすれば、1985年あたりから1990年の間に費やされた市民パワー、創造力、実行力は目を見張る。高崎市政が沼賀市長から松浦市長に移った時期でもあり、新しい都市づくりが新市長に期待されたことも背景の一つにあるだろう。
●新しいボランティアの参加形態
市民がボランティアとして運営に関わるノウハウは高崎まつりで蓄積されてきたが、市民が自主的にスタッフとして深く関わり、感動や充実感を共有する参加形態がこれらのフェスティバルを支えていることが見逃せない。
ボランティアは、必ずしも映画や音楽が好きだからという理由ではない。映画祭スタッフは映画を観られず「映画を観たいならスタッフをしないほうがいい」と言われる。マーチングフェスティバルのスタッフでは、毎回ボランティアに参加しているがパレードを一度も見たことがないという人もいる。ボランティアは裏方の仕事である。毎年、開催されるマーチングフェスティバルを手伝い、音だけを聞きながら「この場所に立つために子どもたちはどれだけ練習してきたのだろう」と思うと、涙が溢れそうになるという。マーチングや映画祭、スプリングフェス、車椅子バスケットなどそれぞれの運営ノウハウがスタッフに蓄積し、ボランティアでありながら専門家集団となっている。
フェスティバル、イベントを引き立てる飲食ブースも重要だ。人情市も便利に使われすぎると思われるほどの活躍ぶりで、様々なイベントに出張し、飲食で会場を盛り上げている。
●多彩な広がりと可能性が生まれる
高崎音楽祭、高崎マーチングフェスティバルを始め、高崎のフェスティバル、イベントは遊び心を持っている。メインイベントにいろどりを添える工夫が、その後、大きなイベントに育っている。光のページェントやオープンカフェは、フェスティバルをもっと楽しんでもらう付帯事業や、実験的なイベントから始まり、面白いから本気でやろうと発展した。
まちを舞台にする複数の大規模なフェスティバルが、市民の力で毎年開催されている地方都市がどれほどあるだろうか。映画祭を含め、音楽祭、マーチングフェスティバルは、それぞれが個性的な芸術性、エンターテイメント性を持ち、高崎の都市文化を象徴している。そして様々なイベントとともに根でつながり、多彩な広がりと可能性を生みだしてきた。それぞれの独創性と連携が、これからも高崎の大きな力となるだろう。
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■市民が高崎のにぎわいを創る
松浦幸雄・前高崎市長
昭和62年(1987)に高崎市長になり、市民が集う場所として、音楽センター前の駐車場を公園にし姉妹都市公園を整備した。庁舎移転後も、新庁舎前を公園とし、旧市役所跡地をもてなし広場として活用することにした。こうした公園、広場が市民に愛され、高崎のまちづくり、にぎわいづくりに役立っている。外国の都市には街の中心に公園があり、人々が集っている。高崎に人がにぎわう場所と数多くのイベントが必要だと考えていた。
市制100周年に向け、90周年の年から群馬交響楽団を中心にした高崎音楽祭で、音楽のあるまちづくりが始まった。高崎は、市民が主体でまちづくりを行う伝統が受け継がれている。高崎はイベントが多く「お祭りが好きな市長」と言われたが、市民が主体となったまちづくりの積み重ねで、今の高崎が築かれている。
■全国から注目された高崎音楽祭
清水一也・前高崎音楽祭実行委員長
第1回高崎音楽祭のステージは今でも忘れられない。アルゼンチンタンゴを高崎独自のコンサートとして実現し、全国から注目された。市制90周年の時に、これからの高崎の方向や高崎に必要な事業を、産業・経済・文化などの分野で研究する「2000年委員会」がスタートし、高崎音楽祭もその一環で実施された。
当時高崎音楽祭が事務局となり全国音楽祭協議会が組織されたが、無くなったり縮小する音楽祭は数知れず、継続されている都市は少ない。
音楽祭の初期の頃に国内の著名なオーケストラに出演を依頼したが、音楽センターでは演奏できないと断られ、ホールの重要性を認識したことがある。
音楽祭は音楽の持っている大きな力を引き出す。音楽センターや群響、ロックバンドのボウイ、バクチクなど音楽で高崎が紹介できる。音楽で人々が交流し、まちづくりのエネルギーにつながっていくと期待している。25年前に種をまき、今、大きく育っている。育てるためには、手間をかけ、汗をかき、知恵をしぼらなければいけないと強く感じている。
■レベルの上がる高崎の子どもたち
飯井雅裕・高崎マーチングフェスティバル協会理事長
マーチングフェスティバルは、子どもたちが主役のフェスティバルだ。国内や世界のトップバンドと一緒に演奏し、子どもたちの意欲も高い。キャバリアーズに感動した小学生が農大二高に進学してマーチングに取り組み、世界をめざしてアメリカへと渡っている。音楽には言葉以上に伝わるものがある。今年は、キャロライナ・クラウンのクリニックやパフォーマンスが高崎を盛り上げ、子どもたちにすばらしい刺激を与えてくれるだろう。
高崎のマーチングは、小中高と全国トップクラスとなっているが、協会では1回目から講習会に力を入れてきた。毎回千人の子どもたちが切磋琢磨し、指導する先生方の交流も盛んで、各校のレベルが上がっている。
25年を経て、小学生として参加した人が親の立場でマーチングに関わるようになった。マーチングが2世代にわたって継承され、更に次の世代へとつなげていきたい。マーチングフェスティバルを「音楽のあるまち高崎」を彩る花として育て、PRしていきたい。
(商工たかさき・平成26年9月号)