高崎アーカイブNo.21 たかさきの街をつくってきた企業
藤五デパート(1964〜1985)
彗星のごとく現れた藤五デパート
一年目で県内トップの売上を達成
昭和36年(1961)12月、田町1丁目で呉服物を商う藤五商店の経営者野口貞一は、高崎商工会議所副会頭吉野五郎たちと株式会社藤五を立ち上げました。連雀町の元警察署庁舎や群馬郡会館のあった市有地4,600平方メートルを買い取り、藤五デパートの開業を計画しました。
当時、全国で百貨店のない三県の一つに入っていた本県に、本格的な百貨店を開店する動きはすでに前橋でもありました。
そして昭和39年(1964)10月に、地上五階建て、屋上展望台をもつ市内で初めての本格的百貨店、藤五デパートが地元資本によって開店しました。三越と資本・業務提携をした前橋の前三百貨店開店から一ヶ月後のことでした。
昭和40年(1965)には年商25.8億円(売場面積6,755㎡)を売上げました。これは前橋の前三百貨店の年商11.7億円(売場面積6,083㎡)の2倍以上で、群馬県でトップの売上でした。
坪あたりの売上単価は日本一
野口貞一による呉服店「藤五商店」は、昭和26年(1951)に創業しました。中央銀座の真ん中に借り受けた店舗を改装し、売場面積は正味14.8坪で、店の前の道路を利用して20坪程度、2階の商品倉庫を入れても40坪にも満たない所でしたが、開業わずか7カ月間で6千万円を売上げ、一気に県内有数の小売店となりました。業界のある業者は「彗星のごとく現れた藤五」と称賛したといいます。4年後の昭和30年には年間1億5千万円の売上げを記録し、坪当たりの売上は日本一といわれました。
まだ戦後の復興期ともいえる混沌とした時代、リスクを背負っての藤五のスタートだったことも見逃せません。これを踏み越えて業界の彗星ともいえる存在となったことから、各地から見学者や見習いに派遣される者が後を絶ちませんでした。
小六で天涯孤独
呉服店で住み込みで働く
野口貞一は、明治45年(1912)に、東京花川戸の回漕問屋藤五に生まれました。祖母てつは川越藩士の娘で、武家気質の備わった女丈夫であったらしく、貞一はこの祖母の薫育を受けて礼儀正しく育ちました。
貞一の実父野口定次郎は、てつの長女春子の二人目の婿養子でしたが、てつとの折り合いが悪く、妻と一緒に養家を飛び出して商売を始めましたが、夫婦ともに流感にかかって亡くなりました。
両親を失った貞一は、父の実兄和三郎が暮らす甘楽郡新屋村に預けられました。和三郎は貞一を大切にしましたが、借金の保証人となったことから無一文になり、やがて失意のうちに亡くなりました。貞一は天涯孤独の身となり、生活は悲惨なものでしたが、通っていた新屋村の小学校の成績は優秀で、6年生の1月に、隣町の福島町塚本呉服店に店員として住み込みで働くようになりました。苦労を重ねながらも店一番の働き者として売上向上に貢献し、やがて、塚本呉服店が高崎の鞘町に出張所を出したとき、20歳で事実上の責任者として采配を振るいました。
貞一の28歳までの毎日は苦労の連続でしたが、そのことが人間貞一を大きく成長させ、努力型で機敏な商才や商店経営のノウハウを身につけさせたといえます。
機を見るに敏、果敢な行動力
昭和15年(1940)、七・七禁令が発表され、金銀糸、縫取、ビロードなど高級品の製造が禁止されましたが、この事態に直面した貞一は法律で禁じられても、出来上がっている商品もあり、欲しい人もいるはずと、高級品を半値に下げて販売したところ、飛ぶように売れました。そして得たお金で、大手の問屋から縫取を買い集め、二倍強の値で売りさばきました。業界の苦境を利用して逆に儲かる商売をやってのけたのでした。機を見るに敏、敢然と立ち上がり驚くほどの実行力を示しました。
天下一品の客さばきに新しい視点と柔軟な発想
40歳になった野口貞一は、独立して藤五を開業しました。十数名の従業員の先頭に立ち、天下一品といわれるほど見事な客さばきを見せました。
また、貞一は広告宣伝の意義をよく理解しました。宣伝には糸目をつけず、思い切って元手をかけました。新聞折り込みは藤五にちなんで藤色を常に使い、これを継続しました。創業後3年間は、宣伝と消費者であるお客様に奉仕するという気持ちで純益を上げることを全く考えず、ひたすら信用を築くことに奮闘しました。
朝鮮戦争の特需の反動を受け、140万円の赤字を出しましたが、取引先の問屋にこの事実を包み隠さずに打ち明け、フラノを4分の1の値で買い、400万円以上を思い切って仕入れました。この体当たりな計画は当たり、たちまち黒字に転じることができました。
また、女子従業員の採用についてもユニークで、県立女子高校の生徒を学校の就職担当の先生に一任して推薦してもらい、採用試験は一切行いませんでした。学校が責任を持って推薦してくれること、不採用にすることで生徒を傷つけ営業にも差し障りが出ることを回避したのでした。
競争の激化と駅前の商業集積に苦戦
こうして藤五デパートは、県内トップの売上高を誇る百貨店となりましたが、昭和43年(1968)に前橋市のスズラン百貨店が高崎店を進出させ、髙島屋系の髙島屋ストア、十字屋、熊谷の八木橋、長岡の丸専などが相次いで進出すると競争が激化したため、昭和44年(1969)に伊勢丹と業務提携し、イトーヨーカ堂や扇屋などと共同仕入機構ナルサを設立するなど、競争力の強化を図りました。
そして昭和48年(1973)に「藤五伊勢丹」に社名変更して伊勢丹傘下に入り、高崎駅前への商業施設の集中に対抗しましたが、債務超過に陥り、昭和54年(1979)に上場廃止となりました。
その後、創業者野口貞一の死後、「高崎伊勢丹」に名称変更して伊勢丹主導での再建を図ったものの成功せず、昭和60年(1985)8月4日に閉店し、その歴史に終止符を打ちました。
※参考資料『商人物語』(吉野五郎著作)、『高崎市史 通史編4』