高崎アーカイブNo.19 たかさきの街をつくってきた企業

料亭 宇喜代(明治〜昭和)

高崎の花柳界の賑わいを支えた大料亭

産業発展、陸軍駐屯で増した料亭の必要性

料亭 宇喜代

 明治になり、高崎でも養蚕業、製糸業、生絹織物が軌道にのり産業が発達するようになりました。そして明治5年(1872)に東京鎮台歩兵第三連隊の第一大隊が、廃城になった高崎城内に置かれ、多くの将兵が駐留するようになると、軍部や政治関係、商工業者の商取引などに、料亭の重要性が増しました。
 明治五年の記録によると、「岡源」、「魚仲」、「三宝館」、「春靄館」、「清隆館」といったりっぱな客座敷をもった料亭ができ、芸者も招かれることが多くなったことが記されています。
 しかし、明治15年(1882)に2,500戸が焼失した越前屋火災で、盛り上がりを見せた料亭を舞台とした花柳界も一時しぼんでしまいました。

柳川町が花街の中心に

 明治17年(1884)5月に各大隊が完備して歩兵第一五連隊となったこと、同年に日本鉄道㈱によって上野〜高崎間の鉄道が敷設されたことが契機となり、再び花柳界や料亭が賑やかさを取り戻しました。
 日本橋の魚河岸より鮮魚を運べるようになり、初めて鮪の刺身も料亭で出せるようになりました。嘉多町、寄合町、本町を中心として花街が発展し、さらに柳川町を中心とした乙種料理店街の拡充によって繁栄が図られました。従来の料理店を甲種とし、私娼の宿のことを乙種といいました。この乙種料理店の出現により、柳川町が花街の中心地となりました。

大料亭の主人たちが盛り上げる花街

 明治30年頃から、一流の料亭が出てきました。そこには客座敷もあり、床の間に掛け軸を飾り、東京式に丸窓も付け、女中も芸者同様に姿を整え立ち働きました。牛肉店などは、その女中の働く姿が評判になり、客が押し寄せたといいます。女中もその店の看板になったので、美人で気のきいた江戸っ子らしい女性が求められましたが、女性の職場のない時代、見つけることはそう難しくはありませんでした。
 料理も従来あった鰻の蒲焼をはじめ、生の魚介類が膳にのり、牛肉料理と共に新しい味を提供するようになりました。
 明治43年(1910)12月発行の『高崎案内』に、柳川町でひと際にぎわった「宇喜代本家」について次のような記述があります。“柳川町大うき世と相対す。最初は大うき世の処にて営業せしが追々に繁栄し狭隘になりしを以って今の処に新築移転せしものなり。主人は非常の魂膽家にてお座敷の模様等をも変更して客の便利を図る故に総ての注意周到なり。その上廉価に特別の愉快まで行届く勉強料理店内なり”。
 宇喜代本家は田中輝司、順二親子が経営し、岡源の岡田米造親子、鍋屋の斉藤誠二、誠夫の親子、魚仲の羽鳥仲蔵親子らと共に、花柳界を盛り上げました。

県下一を誇る宇喜代の200畳敷の大宴会場

 大正9年(1920)には世界的な経済不況に見舞われ、大銀行や実業家の倒産が続出し、当然花街にも影響しましたが、『群馬県料理店連合会誌』には、“高崎の業者はこの時競うて設備の改善をはかった。これは賢明の策といえよう。魚仲、岡源は別館を設けて庭園の美を誇り、錦山荘は観音山に、小島別邸の並榎に望浅閣ができ幽遂の地に俗塵をさける仕組みとし、鍋屋、信田は牛肉料理に他の追随を許さず…宇喜代の200畳敷大宴会場は県下随一を誇っている。かくして組合会員一同は専ら内容を調整して基礎確立につとめた”と記され、昭和10年頃までには立派な復興をみせて、料理店36、芸妓置屋46、芸者120人となりました。

柳川町に咲いた夢二のロマンス

 花柳界を賑わしたスキャンダルも珍しくありませんでした。中でも柳川町一の料亭宇喜代を舞台にした竹久夢二と喜美竜との物語は中央文画壇にまで知れ渡りました。
 昭和4年(1929)三月に開かれた文芸講演会に、吉井勇、直木三十五、竹久夢二などの一流どころが集まり、歓迎会が宇喜代で開かれました。喜美竜をはじめ芸妓10名ほどが呼ばれ、夢二は好みの容姿の喜美竜と意気投合し、羽生重の帯に絵を描いて与えるなど、なかなかの気の入れようでした。それが縁となり、夢二は高崎によく姿をみせ、遂に榛名湖畔にアトリエまで建設し始めましたが、肺を患い死去しました。この時に描いた美人画が、宇喜代に遺品として残されたといいます。
 昭和4年に出版された『高崎』に、飲食店の営業収益税と所得税が記されています。営業収益税でみるとトップが柳川町の牛肉料理の「鍋屋」で営業収益税252円(所得税467.8)、続いて料理屋「宇喜代」が営業収益税210円(所得税414.2円)、3番目が料理屋「魚仲」で営業収益税一96円(所得税702円)でした。
 昭和40年代になり藤五百貨店やスズランデパートが開店すると、料亭の近代化も図られるようになり、岡源や宇喜代でも大衆向きのホールを作りました。魚仲も新築工事に取り掛かりました。
 その後、ホテルや結婚式場などの登場により、老舗料亭のニーズは減少していきます。昭和58年4月に宇喜代の跡地に高崎ビューホテルが開業したのは、象徴的な出来事といえます。

※参考資料『高崎のサービス業と花街史』(出版:高崎市社会教育振興会)写真資料/昭和9年陸軍特別大演習記念写真輯『映ゆる高崎』