高崎アーカイブNo.15 たかさきの街をつくってきた企業

陸軍岩鼻火薬製造所 (終戦後日本化薬株式会社に払下げとなる)(1882年〜1946年)

わが国ダイナマイト発祥の地
軍需・民需に応えた近代産業への大きな足跡

群馬の森に残る遺構

群馬の森の園内に残る土塁
原子力研究所構内に残る製造所の建物

 県立公園「群馬の森」一帯には、明治15年(1882)から操業を開始した陸軍岩鼻火薬製造所がありました。
 広大な敷地には戦後、日本化薬㈱や日本原子力研究所が開所し、両者にはさまれた地帯に群馬県の明治百年記念事業として都市公園「群馬の森」が開設されたのは、昭和49年(1974)のことでした。
 公園の正門右手に流れる粕川に沿った遊歩道を進むと、右手に土塁があります。その土塁は火薬工室で万が一爆発事故が起こった場合、周囲に被害を及ぼさないために構築されたものです。また土塁に附属するコンクリート製のトンネルは、内部にあった工室への通路でした。
 さらに進むと「我が国ダイナマイト発祥の地」の碑があります。“明治38年(実は39年が正しい)ダイナマイトの製造を開始して、わが国産業爆薬製造の発祥地となった”“第二次世界大戦の終結による閉鎖にいたるまで六四年間、ここで生産された火薬類は軍需のほか民間需要にも応え、わが国近代産業史に残した足跡は大きい”などが記されています。

火薬類の軍需、民需の急増に応えて

 富国強兵、産業の振興をはかり、近代国家の確立をめざした明治政府は、火薬類の軍需、民需の急増に応えるため、当時の西群馬郡岩鼻町を製造工場の場所に選定。烏川の沿岸で、当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し、東京に近くて船便があったのが理由でした。
 当時の正式名称は「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」といい、東京の板橋火薬製造所に次いで、わが国二番目の陸軍火薬製造所となりました。
 火薬類は爆弾や砲弾の弾頭として軍事に用いられたほか、発破として石炭などの鉱物資源の採掘やトンネルの掘削などに用いられました。

陸軍唯一のダイナマイト工場

 明治四年(1871)の陸軍創設から、明治27年(1894)の日清戦争に至るまでの軍用火薬は、黒色火薬を使用していました。
 日清戦争では板橋火薬製造所、目黒火薬製造所(はじめ海軍、後に陸軍)とともに黒色火薬を供給し、日露戦争中の明治38年(1905)、陸軍が旅順の東鶏冠山北堡塁の爆破に、ノーベル社製ダイナマイトを使用して大成功を収めたこと、さらに戦時中鉱業用爆薬の需要が増加したことから、急きょ、工学博士の石藤豊太を第三代所長としてダイナマイト工場を製造所構内に建設しました。
 以後、岩鼻火薬製造所は陸軍唯一のダイナマイト工場として製造を開始し、従来の黒色火薬と併せて、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産、供給を行いました。

関東大震災以降の敷地拡張

 大正12年(1923)、東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠は合併し、新たに陸軍造兵廠が設立され、岩鼻の正式名称は「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」になりました。第一次世界大戦後の軍縮の時代で、兵器の平時注文量は激減していましたが、同年九月に発生した関東大震災の影響で、工場群は増設されました。震災により目黒火薬製造が大きな被害を受けたため、残存設備を岩鼻に移したのでした。
 また、明治39年(1906)に板橋火薬製造所が黒色火薬の製造を中止し、大正13年(1924)に目黒火薬製造所が閉鎖されたため、岩鼻はダイナマイト製造とともに陸軍唯一の黒色火薬製造工場になりました。
 そして昭和に入ると、より威力の強い無煙火薬の製造を始めるなど、軍用火薬製造の比重を高め、製造所も拡大していきました。

戦時下の増産体制と多発した爆発事故

 昭和12年(1937)に日中戦争が勃発すると、陸軍軍需動員の実施が発令され、全設備の昼夜運転などにより増産体制を整える完全な戦時体制に入りました。従業員は軍に召集される者も多く、未経験者が約七割、経験者が約3割、大部分が12時間就業、1.5割が14時間就業でした。そのため爆発事故も続発し、昭和13年の4度目の事故は、陸軍火薬製造所全体の事故記録の中でも、一度の事故としては最大の死者13人、重軽傷者五人という犠牲者を数えました。
 日露戦争時も、日中戦争のときも同様で、たびたび爆発事故が発生し、近隣町村に多大な被害を及ぼした歴史がありました。
 工場と工場との間には危険を予防するため50間ないし70間の間隔を置き、その間に土塁を築いて樹木を植えつけたりしましたが、明治38年の事故は12棟が破損し、即死者5人、重傷者3人を出す惨事でした。岩鼻村倉賀野町辺の震動は最も激しく、戸障子を破砕されたものが多かったといいます。
 昭和15年、岩鼻火薬製造所の名称は「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」となりました。昭和17年(1942)、工場拡張のため製造所北側を通っていた日光例幣使街道を付け替えました。また、八幡原火薬庫北側の隣接地を買収し、迫撃砲の装薬(発射薬)を造る工場が建設されました。

敗戦後、日本火薬製造に払い下げとなる

 昭和20年(1945)の敗戦時、岩鼻製造所は敷地面積32万5,000坪、主要機械4,000台、従業員3,946人を擁する巨大な火薬製造所でした。
 敗戦直後、東京に本社を置く日本火薬製造会社(昭和20年12月末、日本化薬株式会社と改称)から、同社の姫路・東京工場が戦災を受けて当面復旧困難なため、岩鼻火薬製造所の民需生産工場への転用の申請が出されました。そして、昭和21年4月にGHQの指令を受け、黒色火薬製造施設を継承して岩鼻作業所の開設に着手しました。正式な払い下げは昭和34年(1959)でした。
 昭和40年代に入ると石炭産業の斜陽化が始まり、火薬類の消費量減少がもたらされました。日本化薬でも生産体制が立て直され、昭和45年(1970)3月に火薬製造を山口県厚狭(現在の山陽小野田市)に集約しました。これにより岩鼻の火薬製造は歴史の幕を降ろしました。
 日本化薬はここを医薬品工場として新発足し、今日に至っています。

※参考資料「陸軍岩鼻火薬製造所の歴史」 原田雅純・菊池実著/みやま文庫。高崎市史 通史編4