高崎アーカイブNo.12 たかさきの街をつくってきた企業
東武鉄道株式会社【高崎―渋川間】(1910〜1953)
地域の電化が生んだ まちの風物詩「チンチン電車」
―明治終盤から昭和初期の45年間―
愛きょうのあるローテクぶりで市民に親しまれる
信越線の線路と立体交差する築堤「電車山」とチンチン電車
明治26年(1893)、馬車鉄道に始まった高崎―渋川間の鉄道は、同41年(1908)に電気軌道になり、翌年伊香保まで延長されました。
この電車は台車を固定した四輪のシングルトロリー式で、定員は20〜30人程度。屋根から一本のポールがのびて、先のコロの溝が架空線にはまっていました。運転室はオープンで、ステップを一段上がって乗降口と兼ねているので、雨の日には運転者は雨合羽を着ないとびしょびしょになりました。運転席の左にコントローラーがあり、始動と運転の切換えがレバーででき、運転手が降りるときには取り外して持って降りました。車のキーの役目もしていたというわけです。
運転席のほぼ中央、床上に足踏み式のクラクションにかわる警鐘の突起が出ていて、これを足で押すと「チン、チン」と鳴ったことから“チンチン電車”と呼ばれるようになりました。
車掌が後部乗降口に陣取り、乗車券の車内販売と停留所で降りる客がいることを運転者に伝えました。網棚を支える金具と前後の乗降口に結んだ一本のロープがあり、これを引くと、ハンマーが鐘をたたく仕組みになっていて、その回数で通過か停止を知らせたのでした。
また、終点に着いたときに、トロリーポールの先端に結んであるロープを引き、滑車を架空線からはずし、180度回転して前後部を替えるのも車掌の仕事でした。この電車は前も後ろもなく、前進方向に面したときが前になりました。
馬車鉄道から始まった路線
昭和28年の九蔵町通り
この高崎―渋川間のチンチン電車の礎を築いたのは、群馬鉄道馬車会社でした。明治25年(1892)に横川―軽井沢間にアプト式鉄道が敷設されると、それまでその区間を運転していた「馬車鉄道」が廃止され、それを高崎の須藤清七ほか一二名が購入し、馬車鉄道敷設の特許を取得、群馬鉄道馬車会社を創立しました。翌年には高崎駅前より渋川長塚町に至る旅客と貨物の運転営業を始めました。
「馬車鉄道」というのは、鉄線路上を馬が引く鉄車輪の車両で運行する鉄道です。鉄線路上を走ることで、通常の馬車より走行上の摩擦を抑え、通常の二倍ほどの速度を保つことができ、乗り心地も良いなどの利点がありました。
明治36年(1903)の高崎―渋川間の馬車鉄道の利用状況は、乗客数14万1,693人、乗車賃2万993円余、貨物運賃3,719円余。客車20両、貨車10両、馬40頭を保有していました。明治35年(1902)の運行状況は、一日一四往復、終点までの所要時間は2時間15分。主な停留所は渋川より有馬、北下、金古、三ツ寺、飯塚、高崎。料金は一区5銭5厘、全区33銭でした。
しかし、世の中に電化が進むと路面電車や本格的な鉄道に代わられました。
高崎水力電気㈱が路線を継承
関東では九番目の電車
明治41年(1908)になると高崎―渋川間の路線は、高崎水力電気㈱が継承しました。そして、明治43年(1910)に「一府一四県産業共進会(産業見本市)」の開催にあわせて電気軌道に転換し、チンチン電車が運行することになりました。関東地方では、東京、横浜、小田原、江ノ島、川越、日光などに次いで九番目の電車となりました。
また、明治42年12月には伊香保電気㈱が設立され、渋川から伊香保温泉まで連絡するようになりました。京浜地方の客も高崎駅からこの電車を利用して伊香保に便利に行けるようになり乗客が増加。電車は60ポンドの軌道に改良され、高崎―渋川間は一時間ほどで到着するようになりました。
経営は東京電灯から東武鉄道へ
大正2年(1913)、伊香保電気㈱は高崎水力電気㈱に合併され、大正10年(1921)には高崎水力電気が東京電灯㈱に合併されて、高崎から渋川経由伊香保行きの電車は東京電灯の経営となりました。
また同年に、鉄道省上越南線(現在の上越線)新前橋―渋川間が開通すると、地域交通の大動脈の座はそちらに移っていきました。翌年には、伊香保線の起点を渋川新町から渋川駅前に移し、高崎・前橋からの伊香保直通運転も中止されました。
当時、東京電灯は関東地方の電力会社の買収を進めており、それら電力会社が経営していた電気軌道事業を持て余した状態にありました。
そこで、東京電灯の相談役を務め、“鉄道王”と呼ばれた東武鉄道㈱の初代社長・根津嘉一郎が、群馬県方面へ伊勢崎線や東上線の延長計画を持ち、高崎・渋川周辺の交通機関の権益取得をめざしていたことから、昭和2年(1927)、前橋線を含め、高崎線、伊香保線の三線は東武鉄道に買収され「伊香保軌道線」と呼ばれました。
高崎線は高崎駅前から高崎市内を貫通し、ほぼ一直線に北上して渋川新町に達する20.9キロメートルの路線で、所要時間は約70分。一時間ごとの運行が原則でしたが、朝夕には二両連結を出すほか、飯塚あるいは金古行きを高崎駅から出していました。
棚上げされた延長計画
取り残され設備の老朽化が進行
東武鉄道は、日光・鬼怒川方面に注力した反面、伊勢崎線や東上線の延長計画を棚上げし、渋川・高崎・伊香保地区は取り残された状態でした。
路線バスの台頭により、昭和10年(1935)頃廃止が決定され準備に入りましたが、昭和12年(1937)に日中戦争が勃発し、路線バスが燃料不足で走れなくなると地域交通の主役に返り咲きました。やがて戦争が終結すると路線バスが復活し、旧式化した軌道線は累積赤字を抱え、地元自治体からも道路整備を理由に撤去を求められるようになりました。
昭和28年(1953)に高崎線は廃止され、昭和31年(1956)には伊香保線も廃止されました。
※参考資料『高崎の明治百年史』(高崎市社会教育振興会)『開化高崎控帖』/(高崎市役所発行)※写真 電車山とチンチン電車/『高崎市史通史編4』より、九蔵町通り/田部井康修氏所蔵