高崎アーカイブ Series2 No.27
初めて電話が通じた日
明治39年12月27日
明治の情報戦! 横浜港の絹取引に電信
戦後は全国初の最新交換技術が高崎に
まず電信を東京・高崎間に
明治政府による郵便事業が始まると、全国的な通信網の整備も進められ、明治2年に東京・横浜間、翌年に大阪・神戸間の電信(=電報)が開通した。
西南戦争により、政府は士族反乱への備えとして九州方面の電信架設を優先したため、関東は遅れたが、明治9年に東京・新潟間が計画された。まず東京・高崎間に着工、政府は明治10年3月に、高崎の宮元町と熊谷に電信局の用地を買収した。
このとき浦和や前橋からも電信局を置いてほしいと要望があり、東京・高崎間、高崎・前橋間の電信が明治10年10月15日に開通し、高崎電信分局が開局した。電信料金は20文字までが基本で、高崎・東京間が11銭、横浜までが18銭、20文字を超えると割り増しとなった。
さらに明治天皇の巡幸が控えていたこともあり、政府は高崎・新潟間の工事も急ピッチで進めたという。
電柱のことを今でも「電信柱」と呼ぶのはこの時のなごりで、明治期の市民にとっては目を引くできごとだったのだろう。
電信で絹相場を素早くキャッチ
電気信号により文字情報を伝える電信は、飛脚の時代に比べ、画期的な伝達スピードで、高崎商人は、すぐにこの文明開化の通信手段に目をつけた。横浜港の絹貿易に、このハイテクメディアを最大限に活用し、情報戦を展開した。横浜で絹取引をしている商人を高崎では「浜師」と呼んでいたが、横浜の絹相場の変動が、電信によって短時間のうちに高崎に伝わったのである。
当時、高崎で電信を使っていたのは、官公庁と商人だけであったようで、高崎の情報革命の扉は、いち早く産業界によって開かれたのであった。
この当時の電信機はブレーゲ指字電信機と呼ばれ、送受信機は一本針の時計のような装置だった。直径20㎝位の円盤の外周部にカタカナや数字が書かれており、針棒が指した文字を筆で書き取り、封書に入れて配達された。電信業務は郵便業務と統合され、高崎郵便局が所管する時期もあった。
高崎初の電話は鉄道業務
明治23年に東京・横浜間で初めて音声による一般向けの電話サービスが開始された。
高崎で初めて電話が使われたのは、明治18年で、高崎・横川間の鉄道業務用電話だったが、雑音がひどくて聞き取りにくく、4年間で廃止された。明治28年には高崎・渋川間の群馬馬車鉄道、29年には前橋の県庁と県内の警察、役場を結ぶ電話が架設され、連雀町にあった高崎警察署と群馬郡役所に電話が引かれた。
明治33年に高崎商工会議所は、電話架設を政府に陳情し、具体化までいきそうだったが、日露戦争によって先送りされてしまった。一般用電話は前橋が県内初で、明治36年7月に開始され、これに合わせて高崎郵便局に「電話所」が設置された。ここに行けば誰でも電話を使えるようになった。
家の中に電話ボックス
明治39年12月27日、高崎に電話が開設された。新聞は「高崎市は県下の大都市なり。電話開設はあたかも鬼に金棒、市民の利便は益々大きく、市の活動はいよいよ敏なるを得べし」と報じた。
電話番号の1番は高崎市役所、2番が第二銀行、3番が茂木銀行、高崎商業会議所は117番などと160番まであったが、使われていない空き番号もあるので、スタート時の加入者は商工業者を中心にした130件程だった。
加入者には、「通信者の心得」が配布され、これに電話の掛け方が説明されている。まず、電話機に受話器を置いたまま発電器の取手を何回か回し、電話機を外して耳にあて交換手の出るのを待つ。交換手に「もしもし何番」と問われたら相手加入者の番号を言い、相手が出るまで待つ。しばらくしても相手が出ない場合は、受話器を置き、また発電器を回して、受話器を耳にしばらく待つ、などと注意点が記されていた。
電話を設置するにあたって、商店では人が一人入れる程度のガラス戸の電話ボックスをあつらえ、この中に入って電話をかけた。まちなかの古い商家には、この電話ボックスの痕跡が残り、電話ボックスのあった頃の店の様子を覚えている年輩者もいる。
明治41年に高崎停車場前に公衆電話が設置され、多くの利用があった。公衆電話は「自働電話」と呼ばれていた。
産業界が最新設備を要望
市内通話は交換手がすぐにつないでくれたが、市外は電話局に取り次いでもらい、相手が出るまで半日以上かかった。一方、電報は、急報電報の「ウナ電」を打つと、1時間以内に相手の返事がもらえるので、商店の取引や生糸相場の伝達に電報を利用されるのは一般的となっていた。
大正時代になると電話の加入希望者が激増したが、電話交換機の能力等から加入制限がかけられ抽選となっていた。高崎商業会議所は、交換局拡張を要望し、市内商工業者の寄附と市の拠出によって用地買収し、最新設備で耐震耐火構造の交換局が新築された。高崎の産業界は、大正期から情報化に着目していたのだった。
大正15年の市内の加入者数は824件で、普及率は前橋よりも高かった。電話普及に伴い、この頃は、倉賀野郵便局など地域郵便局でも電話交換業務を行っており、まだ電話のない市町村役場も少なくない時代だった。
「汽車よりも遅い」市外通話
全国初の自動ダイヤル通話交換機導入
戦後、電信電話公社が発足し、通信需要も大きく伸びた。しかし、まだ交換手が手動でつないでいた時代で、しかも高崎電話局の設備は旧式で、高崎から東京に電話を申し込んで相手が出るまで5時間かかっており、「鉄道よりも遅い」と不評をかっていた。
高松町の現在のNTT東日本群馬支店の場所に新しい電話局が建設され、昭和30年に全国初の最新鋭交換機を導入、高崎、前橋、安中などは交換手を介さず、ダイヤルを回すだけで通話ができるようになった。さらに昭和37年3月に完全自動化が実現し、全国どこでもダイヤルを回すだけで通話ができるようになった。
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