国分尼寺跡調査で尼坊を発見
(2017年03月17日)
発掘現場の空撮(南から北方向を撮影)
上野国分尼寺の建築物配置
説明会場までの案内図
高崎市教育委員会
高崎市教育委員会は、発掘調査を行っている上野国分寺跡で、尼が日常的な生活をおくる宿舎「尼坊」跡が良好な状態で残されていることを発表し、16日に現地を報道機関に公開した。
高崎市教委の説明によれば、上野国分尼寺は、奈良時代の天平13(741)年に聖武天皇の「国分寺建立の詔(みことのり)」により、上野国分僧寺(史跡上野国分寺跡)とともに創建された。上野国分僧寺の創建が8世紀中頃と考えられ、尼寺も同時期に建てられてものと考えられる。
聖武天皇の詔では、僧寺には僧20人、尼寺には尼10人をおくことになっており、今回発見された尼坊は、10人の尼が生活する宿舎で、高崎市教育委員会の28年度調査で礎石がみつかった。
高崎市教育委員会は、3月20日(月・祝)午前9時30分から午後3時30分まで、一般向けの現地説明会を実施する。駐車場が用意されているが、舗装されていない狭隘な農道のため、上野国分寺の駐車場に駐車し徒歩を推奨。上野国分寺駐車場から前橋方向に向かい、関越道を過ぎて「蒼海栄橋東」信号を左折。次の信号を過ぎて右折して直進すると現地。
●上野国分尼寺・尼坊跡の調査概要
上野国分尼寺跡は、昭和44年・45年に群馬県教育委員会の調査によって国分僧寺東方に存在が確定されていた。この時の調査で、柱間(はしらま)数は南北方向4間×東西方向6間(10・8m×18m)の講堂跡と考えられていた。
今回、隣接する東側部分を、高崎市教育員会が発掘したところ、想定された講堂の構造よりも東方向に礎石が等間隔で並び、28年度は11間の礎石などが発見された。東端に置かれるはずの礎石が見つかっていないことから、礎石は更に伸び12間以上になると考えられる。尼坊の内部は「房」と呼ばれる小部屋に仕切られていた。
専門家による検討委員会で、12間以上の構造を持つのは講堂ではなく尼坊と考えられることが指摘された。
昭和の調査で講堂と考えられたのは、礎石が大きく立派な建物であると考えられたことも理由の一つで、上野国分僧寺と同様に、この国分尼寺が全国的にも水準の高い建築で、上野国の国力を象徴するものであったようだ。
調査現場は、前橋市境にあり高崎名産の国府白菜などを生産する農地。地権者は、埋まっている礎石が農作業のさまたげになっているが、国分尼寺のものであることから除去しないで保存につとめてきたという。地元の熱意もあり、高崎市が学術調査を実施している。
尼坊跡の調査例は少なく、高崎市では地元の協力を得ながら調査を継続していく考え。
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