平成時代の高崎(4)

(2019年03月30日)

高崎競馬の最終日
中央銀座アーケードの崩落

失われた10年

 平成20年代にV字回復

「失われた10年」と大規模災害

平成時代の高崎産業界では「先行き不透明、厳しい経営環境」という言葉が言われ続けてきた。不況と大規模災害は平成という時代の一側面である。荒波は、幾度となく企業経営を襲い、辛い経営選択を迫られることもあった。

バブル崩壊後の平成3年(1991)から始まった「平成不況」は、「失われた10年」とも言われる。インターネット関連企業などIT株の高騰により、1990年代後半から2000年後半に「ITバブル」があった。平成20年(2008)のリーマンショックにより世界不況に陥り、地域経済も大きな打撃を受けた。

平成7年(1995)1月に阪神淡路大震災が発生し、被災地支援や防災意識が喚起された。平成23年(2011)3月に発生した東日本大震災と福島第一原発事故は高崎においても市民生活に大きな影響を与え、高崎市の産業も直接的・間接的な被害を受けた。

平成26年2月には積雪70㎝を越える大雪に見舞われ、国道18号の通行止めなど交通や市民生活に大きな影響が出た。ビニールハウスの倒壊、中央銀座アーケードが崩落など被害も大きかった。大地震や大雪を教訓に、高崎市は防災施策を大転換した。

 

「高崎の発展」を誰もが実感

大規模プロジェクトが都市力を牽引

今の高崎は大きな発展に向かって力強く動き出している。苦しい時代を乗り越えた努力が、高崎の大きな力となった。

東日本大震災後に高崎産農産物が受けた風評被害を克服するため、「地産多消」を合言葉に高崎ブランドの首都圏PRが始まり、PR効果は海外にまで波及しはじめている。

平成20年代は、過去数十年にわたって塩漬けになっていた工業用地、新たな産業団地の造成など、企業誘致の動きが本格化した。

高崎駅東西の大規模プロジェクト、再開発が本格化したのも平成20年代であり、昨今では「高崎が大きく変わっている、高崎が大きく発展している」と誰もが実感できる状況となっている。

 

V字回復したビジネス力

平成初年のバブル崩壊、平成20年のリーマンショック、平成23年の東日本大震災などにより、大きな痛手を受けたことがグラフから読み取れるが、現在は底を抜けて上昇基調にあることがうかがえる。

平成24年の経済センサスで、高崎市は卸売と小売を合計した商業売上が全国14位にランキングされた。直近の数値では全国15位となっているが、高崎市は全国ランキングに入る都市力、ブランド力を示し始めている。

 

高崎競馬の廃止

赤字が続いていた高崎競馬は、平成14年度末の累積赤字が44億5,000万円程度になるものと見込まれる平成15年度から2年間で経営改善できなければ廃止されることが決まった。平成16年9月に小寺弘之知事が高崎競馬廃止を決断。平成16(2004)年12月31日のレースが最後となった。最終レースの高崎大賞典は雪のために中止となった。

 

高崎の名門・井上工業が倒産

井上工業(和田町・中村剛社長、東証2部上場)と子会社のフォレスト株式会社は平成20年10月16日、破産開始手続きを東京地裁に申し立て、決定を受けたことを発表した。負債総額は井上工業が115億6,786万円、子会社が9億4,719万円で、あわせて125億円。平成12年に特定調停手続きによって金融機関の債務免除で再建を行った。サブプライムローン問題に端を発した不動産市況の悪化で、資金繰りが悪化したという。

井上工業は白衣大観音を建立した井上保三郎氏が明治21年(1888)に創業。昭和4年に井上工業株式会社を設立し、120年の歴史を持つ。井上工業の保三郎、房一郎社長は高崎の産業、芸術文化のリーダーとして時代を牽引した。房一郎氏は、群馬交響楽団の設立、アントニン・レーモンド設計の群馬音楽センターの建設に尽力し、群馬県立近代美術館が開館した際には、自身の戸方庵コレクションを寄贈するなど、高崎に大きな貢献をしてきた。

高崎商工会議所『商工たかさき』2019年3月

 

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