髙崎唱歌
散歩風景 20
吉永哲郎
唱歌の21番は、「坂を上がりて赤坂町 長松恵徳両寺院 北に曲がれば三国道 四っ谷相生住吉町」です。
赤坂町は初め給人町といって城主家人の居宅地であったところ。
高崎城成立後、先の家人宅が城内に移転し、それに代わってできた町です。本町1丁目交差点から西へ旧中山道の坂道を下り常磐町までを赤坂通りと今は称していますが、幕末明治初め頃は、糸繭仲買商・和洋薬種問屋・茶舗・油屋・米穀乾物店など、高崎の北の町でも信用ある商業地でした。
先の交差点角には大津屋(薬屋)があり、その壁には「左中山道、右三国道」と旧三国街道の分岐点を示す道しるべがあり、現在は近くの覚法寺檀家専用駐車場になっています。
反対側角には中林文具店があり以前の百足屋(砂糖屋)で先頃まで蔵が残っていました。往時を知る人は少なくなりました。
四谷町は城主間部氏の時開かれた町。八十二銀行ビル(元醤油製造業十一屋の敷地で、赤煉瓦の醸造蔵がいく棟もあったところ)路地を境に相生町となりますが、以前の電車通り(現渋川街道)で最小の町でした。相生町には十一屋前に三階建ての教育図書専門の立見屋書店があり、西上州全域の教科書、通知簿・学籍簿などを扱っていました。
旧43番地には「ナリン殿下の回想」で昭和13年第7回直木賞受賞した橘外男が父(高崎連隊の橘七三郎大佐)と住んでいました。
また陶器製造の窯があり、産地瀬戸から取り寄せ、4、5人の職人もいて盛んでした。その面影を訪ねて歩いて下さい。住吉町は次回で。
(2018年12月稿)