髙崎唱歌
散歩風景 12
吉永哲郎
唱歌の⑬番は、「夫れよりかぢ町檜物町 鞘町過ぎて中紺屋 寄せに芝居に勧工場」です。
歌詞にある町名は現在もありますが、往時賑やかであった町並みが思われます。鍛冶町は鍛冶職人の町、店の奥の暗いところに鋳物工場があり、赤く焼けた鉄を鍛造する職人の姿がありました。
檜物町は檜の薄板で曲げ物をつくる檜物師の町。鞘師の住んでいた町が鞘町。中紺町は、俗称「古着横町」といい、往時は道の両側に大小の呉服屋・古着屋が軒を並べ、人通りの多いところ。それを偲ばせる店が現に残っています。
さて、寄席は明治に鞘町(現天田歯科医院の裏に)に「睦花亭」が昭和初めまであった。この寄席をはじめ鞘町通りを北へ、元のオリオン座跡に劇場「藤守座」、それが大正期になると「世界館」という映画館、経営者が変わるごとに「第二大和」「松竹」と名称が移った。
1877年(明10)東京で第一回内国勧業博覧会が開かれると、その後、勧商場(大阪)、勧業場(東京)など、見本展示即売の店が各地に出現しました。
歌詞にある「勧工場」は、この一環の店で、その一つが元東宝劇場の入り口に、ウナギの寝床のように奥が深い店がありました。今のショッピングセンターのような意味合いをもっていて、庶民の買い物の楽しみの場であったようです。何でもないように、町名のみの歌詞に見えますが、実は各町名には、明治近代の高崎の文明開化を物語る空間を備えています。食文化に関しても、大事な町名ですので、改めて紹介したいと思います。
(2018年7月稿)