髙崎唱歌
散歩風景①
吉永哲郎
「唱歌」は平安時代から楽器の譜を声で歌うことを意味しますが、一般的には明治5年(1872)の学制発布以来に用いられた語です。特に伊沢修二が編した「小学唱歌集」(明治14刊)によって、「蝶々・蛍」など広く人々が歌うようになり、親しまれてきました。そして七五調「鉄道唱歌」(明治33)が制定されると、教育の場だけでなく、人々がことあるごとに口ずさんでいる状況になりました。こうしたことを背景に当時中央小学校校長深井小五郎が、縦10㌢8㍉、横14㌢の20㌻余りの小冊子「髙崎唱歌」(明治41)を刊行しました。市内各所を詠みこんで40番に及びます。先の「鉄道唱歌」の旋律に合せ、歌っていたようです。
「我が心の風景」の「橋風景」は一休みして、今回から「髙崎唱歌」を紹介しながら、唱歌散歩風景を描きます。
まず一番は「仲山道に名も髙き 髙崎市(まち)は上野(こうずけ)の 商工業の首脳の地 人口三万八千余」です。中山道を「仲山道」と表記していた頃の旅日記「壬戌日記」(太田蜀山人著・享保2年(1802)刊)に、高崎はにぎわしく「江戸にかへりし心地ぞする」とか、髙崎で本屋を中山道筋で初めてみたと記しています。「首脳の地」とは活動の拠点、蜀山人以来、高崎が県下の中心的役割を担っているという、高崎人の自負が窺われます。現在人口37万余り、あなたの将来の夢は…
(2017年8月稿)
- [次回:散歩風景②]