髙崎唱歌
散歩風景41
吉永哲郎
今回は高崎唱歌39番「白銀町の元紺屋 旭町には専売の 高崎煙草製造所 日々職工五百人」です。1900年発行の「高崎市案内」には「白銀町」は「田町一丁目巡査派出所の南角を東に折れし道幅狭き東西の町にて、往時この辺に白銀師の居宅多く散在なりしかば、後年之に縁(ちなん)で町名に附す」とあります。
「白銀師」とは刀匠が製作した刀の刀身の手元の部分に嵌(は)める金具・鎺(=はばき・刀を鞘に固定するための金具)をつくる刀職のことで、城下町ならではの刀匠たちが住まいしていたことが思われます。
田町信号機の四つ角を東への田町の裏通り町になります。「元紺屋町」は豊田園横の善念寺のある細い通りで、昔のままの風景を残しています。
江戸時代、煙草の名産地は上州の「館たばこ」と九州の「国分たばこ」、高崎近辺には山名の「光台寺たばこ」が有名でした。1897年発行の「高崎繁昌記」には9軒の民営のきざみ煙草製造業者がいましたが、明治政府の財政健全化のための「専売法」により、煙草製造は官営になりました。そして1905年高崎煙草製造所(専売公社の前身)が南小学校の東側に、現髙島屋付近にも工場が点在しました。その後、1913年、鶴見町に群馬、長野、埼玉、新潟4県を管轄する高崎専売支局(現在の東急イン)が設けられ、1949年高松町、今の宮原町へと工場は移転しました。
1893年の高崎市内には煙草業者249人、10年後には煙草商93人、煙草きざみ職人53人がいました。
煙草は高崎を知るだいじな近代史だと思います。
- [前回:散歩風景40]