髙崎唱歌

散歩風景38

吉永哲郎

 今回は37番「北の隣の大信寺 遺愛の松にあふひの紋 呑龍上人勧請し 縁日は月の初八日ぞ」です。

 大信寺は徳川忠長の墓があるお寺で、墓地に五輪塔形式の墓石が、切り石造りの玉垣に囲まれてあります。全体の高さが3m余りある大きな墓です。


忠長は徳川二代将軍秀忠の第三子として生まれました。姉は千姫、兄は三代将軍家光、母は浅井長政のむすめ達姫で、淀君の妹です。歴史上に名を連ねている人たちです。

さて、忠長は幼名を国松といい、利発聡明であったので、兄・家光以上に父の寵愛を受けていました。このことが悲劇の人となったのです。春日局が家光を将軍につけるためのしたたかさはよく知られていますが、将軍となった家光はことのほか忠長を疎んじます。父秀忠の死後の翌年(1632)に忠長の乱行を理由に、家光は高崎藩主安藤重長に預け、高崎城内に幽閉しました。そして翌年に自刃して果てます。27歳でした。忠長が駿河大納言と呼ばれたのは権大納言従二位に叙されたからです。「遺愛の松にあふひの紋」は忠長の墓をいい、火輪の正面に横並びに三つ葉葵の紋が二つあります。

大信寺は明治に国会開設運動の本拠地で「上毛有志会」(県下の民権政治結社の連合体)の本部があった寺です。県下自由民権運動の原動力となったゆかりの地の意味もあります。

「遺愛の松」は枯死し、現在はありません。なお墓の入り口には葵の紋を刻した唐門がありましたが、戦災で焼失しました。高崎の歴史を語る上での大事な寺です。

高崎の都市力 最新記事

  • 株式会社環境浄化研究所
  • シネマテークたかさき
  • ラジオ高崎
  • 高崎市
  • 広告掲載募集中