髙崎唱歌
散歩風景33-2
吉永哲郎
今回は南町散歩です。まずはご町内の氏神「あたごさま」から。
京都北山の愛宕神社か分霊した社です。雷神を祀り、火防の守護神として信仰をあつめています。京都の人々は台所に愛宕さまのお札を張り、一年の息災を祈ります。
創建当初、9月24日は愛宕精進といった盛大な護摩修業が境内で行われていましたが、寛政以後(1700年以後)衰退したといわれます。「高崎案内」には「毎歳(年)6・9の両月23日に祭典」をし、境内には辨天堂・八幡・稲荷・秋葉・疱瘡神など多くの末社が祀られ、「老松老杉枝を交えて鬱蒼」としていたとあります。
1907年(明治40)高崎神社へ合祀する話がおこったが、南・新田・若松・新喜町の人たちが「あたごさま」を維持すると、合祀しませんでした。
境内のコンクリートの井戸は、上水道が完備していなかった1893年(明治26)の秋の大演習に行幸された明治天皇に献じた水の井戸です。市内でもっとも良質な水として認められていました。
さて、愛宕信仰が厚いのは、江戸時代城下に於ける大火が多く発生し、記録に残るだけでも明治中頃まで40回近くあります。よく城下が灰に埋もれなかったかと考えさせられます。こうした背景からも「あたごさま」信仰が厚いことを思います。
多中の金比羅さまの縁日は毎月の10日、その日参詣する人で南町通りは賑やかでした。町には醸造清酒問屋、米穀商などの豪商の居宅が多くありました。
「新喜町」は現・和田町で、藩主間部詮房の時、新たに町になりました。1710年(正徳2)のことです。