髙崎唱歌
散歩風景31-2
吉永哲郎
前回に続いて「御伝馬事件」の延養寺からお話しします。
延養寺は箕輪城主井伊直政が箕輪の西明屋から現在地へ移した寺で、14世紀後半期、足利尊氏開基の創始と伝えられています。以前、寺宝として武田信玄朱印状3通保持していた古刹です。24世良翁は文学僧として知られ、特に1827年(文政)に下佐野の人々が万葉集東歌を馬頭観世音像の下に刻し建立した「佐野の舟橋歌碑」は、良翁の業績の一つです。
墓地に江戸時代宝暦から天明年間に高崎で活躍した俳人生方雨什、羽鳥一紅の墓がありました。(墓地は八幡霊園に移されました)
唱歌にある「憲兵屯所」は、兵隊の警察のような役割を持ち、後に「憲兵隊」と改称されます。はじめ1896年(明治29)に嘉多町の覚法寺境内に置かれましたが、矢島八郎が敷地寄附(元マス屋横の小路の奥、元赤羽楽器などの裏側)し、庁舎が設置されました。
憲兵隊は常に馬で、腰に大きな拳銃とサーベル、腕に白地に赤の腕章をつけ、伍長と上等兵の6~12名の編成で、市中を巡視し、国民の士気をあおり、風紀思想、特に反戦活動家の取り締まりに重点を置いていました。戦時中は酒を飲み、高歌放吟すれば、すぐに憲兵隊に連れていかれたといわれています。
唱歌の「授産場」は生活困難になった日露戦争の出征軍人の遺族、遺児などの自活の道・育児などの援助を目的とする施設で、延養寺内やあらまち町内に設けられていました。
こうしたことからも、あらまちは高崎の中心的な役割を担っていたことが、思われます。
次回はあらまちの宿屋です。