髙崎唱歌
散歩風景 29
吉永哲郎
今回は、前回で高崎絹に関して紹介しました。田町は商都の象徴としての存在意味に触れましたが、江戸時代の高崎絹市場に関しては触れませんでしたので、補足したいと思います。
絹市場は元禄時代にでき、その頃の田町は問屋業者、仲買業者が増え、毎月の市は賑わいをきわめていたと伝承されています。ところが老中水野忠邦による天保の改革によって、農民町人の絹物着用法度になったために、絹市場は一時的にさびれました。やがて表に木綿を裏に絹の肌ざわりを好む風が流行したのをきっかけに、裏地としての「高崎絹」がもてはやされました。こうした背景幕府は天明元年(1781)武蔵、上野両国の47ヶ所の絹市場に3年を限って織物取引税を納める「絹糸改役所」を設けました。
この役所は農民の生産した絹・生糸を検査し、その取引の手数料を商人から幕府は徴収しようとしました。ところがその取引手数料が農民に転嫁されるのではと、役所に設立に反対する機運が関連の地で起こりました。これが「絹運上騒動」で、杉田玄白の「後見草」に書かれています。
高崎は押せ寄せる反対派の人たちで大混乱。これは時の老中田沼意次と高崎藩主大河内輝高(右京太夫)とのかかわる騒動で、「罪右京田沼ぬ外に手を入れて加増取高崎へへるべい」という落首が残っています。「頼まぬ・加増取高・先・減るべい」の意味を含んだ落首。高崎田町は奥が深い。さてこのへんで、絹市場のお話、幕とします。