31.高崎新風土記「私の心の風景」
電車みち
吉永哲郎
明治の時代、尾崎紅葉『金色夜叉』のお宮と貫一とともに、人口に膾炙(かいしゃ)された、徳富蘆花『不如帰』(ほととぎす)の浪子と武男をご存じですか。冒頭は「上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は十八九。品好き丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布(ひふ)を着たり。」と書かれ、この婦人(浪子)の結核に罹るその悲劇的人生を、「泣いて血をはくほととぎす、浪子と武男の物語」と評され、人気を博した小説となりました。
当時の伊香保の夏は、真新しいカンカン帽に着流しの男達が目立ち、東京から上流家庭の子弟が避暑にやってきました。この伊香保へは、上越線が開通するまで高崎から鉄道馬車(後の路面電車)に乗り、渋川経由でいきました。渋川まで二時間半かかりました。その後馬車は電車になり「チンチン電車」と親しまれ、昭和三十年頃まで市内を走っていました。高崎に路面電車があったのです。
高崎駅から田町通り、本町三丁目の角を左に折れ、さらに一丁目の角を右に折れ北高崎駅の方向へ、それから「電車山」で信越線をまたいで飯塚車庫に着きました。この市内の繁華街を通る路面電車の軌道が敷かれているみちを、「電車みち」といいました。カローラ高峰本社西側、昭和町と大橋町の境の北へ真っ直ぐな一本みちが、その面影です。
チンチン電車の車窓に、色白細面の浪子の姿があります。あなたには見えませんか。