32.高崎新風土記「私の心の風景」
夕暮れの薄の河原
吉永哲郎
晩秋は夕陽のドラマを追ってあちこちに足を運びます。先日、高崎公園の頼政神社に行きました。内村鑑三の「上州人」の記念碑を背にして、眼下にひろがる烏川原と観音山丘陵を背景にした夕陽のドラマを眺めました。その夕陽の逆光の中に、時々刻々と移り変わる烏川原の薄の光景は、まさに自然が演出する一場面でした。その時、口をついて「余の家は時に上州高崎にありて、余はいつしか殺生の快楽をさとりたれば、夏来たるごとに余はその付近の山川の河魚の捕獲の余念なかりき。」という鑑三の文章がでてきました。
鑑三は宗教家・思想家として知られていますが、札幌農学校では水産学を専攻しています。後年、農商務省嘱託となり、『日本近海魚類目録五九九種』を編集し、水産立国論を唱えています。その原点は、幼年期に碓氷・烏川で「さかなとり」をしたことであることが、先の文章からうかがえます。
現代にあっては、鑑三少年のように、川原で遊ぶこどもたちの姿を見付けることは、なかなかできませんが、いつの日か「さかなとり」の少年の姿あふれる、烏川原にもどることを夢みています。こうした自然環境に育まれた少年から、鑑三の精神を継ぐものが生まれてくるのだと信じるからです。
さて「おれはかわらのかれすすき」と口ずさむのもよし。また、与謝蕪村の「山は暮れて野は黄昏の薄かな」のような句作するのもよし、いずれにしろ晩秋の夕陽のドラマを鑑賞するひとときを持ちたいものです。
わたしは中村草田男の「なにかも失せて薄の中の路」ではありませんが、黄昏の薄の川原を歩きます。そして熱燗の居酒屋へ
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