76.高崎新風土記「私の心の風景」
八間道路の夜店風景
吉永哲郎
梅雨が明ける頃になりますと、「八間道路の夜店」を思い浮かべます。若い人にはあまり馴染みのないことだと思いますが、学校が夏休みになったその夕方から、親が夜店へいつ連れていってくれるかと、気になりました。その場所は昭和三年にできた「八間道路」です。
田町北の交差点から弓町を経て踏切(現在はガードになりました)までの道幅が、八間あったことから、八間道路というようになりました。そこへ田町の市の日に露店が並ぶようになりました。この背景には、近世高崎で開かれた定期市のことがあります。田町は毎月のゴトオビ(五と十の付く日)、月六回の「六斎市」が開かれ、また他の町ではできない絹と綿の取引が行われ、「絹市」とも呼称されました。
この市は明治以後も引き継がれ、市の立つ日には近郷近在の養蚕農家の人たちで賑わったといわれています。こうした賑わいをもとに、八間道路が出来ると市日に露店が並ぶようになり、同時に六月末から八月には夜店が開かれるようになりました。
この賑わいは第二次大戦が始まるころまでありました。戦争で一時途絶えた八間道路の夜店が復活したのは、終戦の翌年の夏からです。余裕のない暮らしの中、アセチレン灯のにおいの夜店に並ぶ、風鈴・金魚、海ホオズキやベッコウ飴、夜店を彩る女の子の糊のきいた花柄や、長い袂に大きな金魚の柄を着た少女たちの浴衣姿に、平和が訪れたことを感じました。
私はきりぎりすの入った虫籠を買ってもらいました。こうした高崎の夏の風物詩「八間道路の夜店」は、東京オリンピック開催の年、昭和三十九年に消えました。
(高崎商工会議所『商工たかさき』2010年7月号)
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