橋の風景から34
―常慶橋(上)―
吉永哲郎
市内田町北交差点から東への道は、八間道路といって、一昔前は夏になると夜店が開かれ、市民に親しまれていました。この道は県道24号線(高崎・伊勢崎線、俗称伊勢崎街道)で、広い大類町(下・中・上・南・宿の5区分の町名)を通り、下大類町東と上滝町との境に井野川があり、常慶橋が架かっています。橋を渡り県道13号(前橋・長瀞線)を150メートルほどゆき上滝町交差点で分岐し、関越道高架を潜り抜け玉村町へと通じます。現在の常慶橋付近は道路が入り組み、車の往来が激しいところで、あたりの風景を眺め渡すことはできません。明治は「御一新」のことばで始まりました。近代化に夢をいだきましたが、人々の日常生活は以前と変わらず、苦しいことに変わりはありませんでした。明治初期の2年間、県下は暴風雨に襲われ、穀物収穫がままならず、加えて政情不安とが重なり、多くの浮浪人が路頭に迷いました。交通の便のよいこの橋のたもとにも、各地から浮浪人が移動してきたといわれています。新政府の救済政策は当時なく、上大類の豪農加藤家本家は、井野川までの水路を掘る浮浪人救済的土木工事を企画し、食べ物を提供した話が残っています。その後政府は「捨子養育・行旅病者救護・貧民援助」の規定を出しますが、人々の生活がいかにきびしかったかが想像されます。日本近代のかなしい夜明け風景を、橋上から思い巡らします。