橋の風景から28
―聖石橋―
吉永哲郎
観音山一帯が観光地として全国に知られるようになったのは、1936年に白衣大観音立像が建立されてからで、今年は建立記念80年にあたります。当時、大観音への道路、烏川に架かる聖石橋の整備が急がれました。「観音通」の名称などはその折にできたとききます。
さて、聖石橋の名は橋下下流の聖石(現在は中洲の草むらに埋もれ、意識しないと確認できません)から名付けられたといわれます。半世紀前の聖石は烏川の流れの中にあり、悪童たちは「おおいし」と呼称していました。この深い淵の「おおいし」付近は、夏は悪童たちの泳ぎの遊び場でした。ただ流れが深くはやいので、時折おぼれる仲間がいて、「河童にひっぱりこまれた」と恐れられた所でした。
明治時代、橋は片岡村の村営で、橋銭を徴収していたこともありました。この背景には台風などによる烏川の増水で、橋がよく流され、その復旧工事の多大な費用捻出の意味がありました。以前、川の流れの変化によって橋の位置が移った痕跡を、橋の上・下流の川中にわずかに残る木造の橋げたによって確認できました。それにそっての名残の道筋は、上流の橋へは龍廣寺山門前の道(現在は国道で行き止まり)、下流の橋へは観音通から城南球場へ下る道です。
幅広い歩道の、贅沢な橋上の空間に身を置いた時、私にとっては聖石橋と人間のドラマを思う、ロマン橋です。