高崎のたたずまい 12
乾櫓と東門
〜高崎城の面影を今に伝える〜
お堀端が最も華やぎの時を迎える季節― まもなく春。枝を空へ、水面へと伸ばす桜はおよそ300本。カモはのんびり水面を漂い、待ちに待った開花に行き交う人はみな顔を上げ、自然と顔をほころばせる。
ここは高崎城址、三の丸外堀。桜、ツツジ、新緑への変幻の演舞は、まちに彩りと活気を与える高崎の風景である。移築、復元されたかつての乾櫓と東門はそのシンボル的建物であり、昼時ともなるとその前を近隣の事業所職員らがどっと流れ出てくる。「江戸の昔はここをお侍や町人、旅人が歩いていたのか」と姿を重ね合わせてみると何やら愉快だ。
徳川家康が北の守りとして重要視していた箕輪城の城主は、徳川四天王のひとり井伊直政公であった。慶長3年(1598年)、直政公は山城である箕輪から交通の要衝地、和田に町家や社寺を移し、広大な高崎城を築いた。城の材木は観音山の赤松が使われ、烏川を背に三階櫓を中心とした本丸、その周りを本丸堀、二の丸堀、三の丸堀と土塁が囲んだ。天守閣の築造が禁止された時代、本格的な守りの城としての三階櫓は勇壮であったことは、古い写真が伝えている。
高崎城下の四隅には寺が配され、“いざ”という時に備えられた。町の外縁「遠構え」は、「遠堀」が囲み、町の中心を中山道が走る。陸路、水路を備えた高崎宿は、あらゆる地域への分岐点として重要拠点だったのである。
今、高崎城の面影を伝える乾櫓(県指定重要文化財)と東門(高崎市指定重要文化財)は、音楽センター東入り口で見ることができる。櫓は戌亥、つまり本丸の北西にあった。現在、和田橋東のNTTが建つ辺りで、本丸の発掘調査が進む。東門は、シンフォニーロードと城址公園の境に位置し、商人も通る通用門だった。両文化財は、明治初めに払い下げられていたものが下小鳥町の農家の庭先で朽ち果てるままに見つかり、移築復元となった。当時を偲ぶ遺構と桜の共演は、絶好の撮影ポイントである。
「お江戸みたけりゃ 高崎田町 紺の暖簾がひらひらと…」。旅人が江戸と見間違えたほどの繁栄ぶりだったという高崎城下町。今、高崎は北陸新幹線開通、高崎玉村スマートインターチェンジ直結などの交通拠点として、新たな役割を担おうとしている。直政公もいかに思うか。うららかな日、城下高崎に想いを馳せながらそぞろ歩くのも、悪くない。
●乾櫓と東門
高崎市高松町