高崎のたたずまい 8
箕郷の宮川酒造店
贅を尽くした母屋の風格と幻の酒蔵
箕郷支所入口交差点から南下し、高崎安中渋川線沿いに南向きに建つ宮川酒造の母屋は、西側にある風よけのかしぐねが、その風格あるたたずまいをしっかと守っている。
玄関へと足を運ぶと縦格子の硝子戸向こうに、十畳の土間、奥に控えの間、書院造の客間と続き、西側には廊下が伸びる。黒光りした楓の中廊下を挟み、更に二間の居間が続く。階段ダンスを上ると、二階には六部屋、そのうち客間は二つ、西側には畳廊下もあった。この家は、二列六間の造りと言われる。
百三十七年を経過する頑丈な建物は、釘一本使っていない。客間の柱は、柾目の欅が使われ、床の間には黒柿の柱が光る。天袋には、高崎藩・大河内松平家の最後の御用絵師、梅渓の手によるという七福神が浮かび上がる。二階客室の欄間には日光東照宮の彫物を彷彿とさせる天女が舞う。
「下田の親父に、贅沢な家だから大事にしろと常々言われたが、ボールを投げたり傷つけたりしてしまってね」と幼少時代を振り返るのは、六代目・宮川雅次さん八十八歳。下田家はこの地区の庄屋で四千坪の大地主であった。下田家と宮川家の縁は深い。明治四年、酒を腐造させ酒造りを断念していた下田家のことを聞きつけ、宮川家初代当主・源二郎氏は、明治六年、下田家から酒蔵を借り受け酒造りを始めた。三年後、造り蔵と枯らし蔵を譲り受け、今の場所に移築。陸軍ご用達の酒蔵となった。
造り蔵の二階では、酒の元になる元造り用の樽が並び、一階のタンクに移す仕組みで、枯らし蔵には、天日干しされた酒樽や道具類が保管された。十一月から三月に掛けて南部や越後からの杜氏が出稼ぎにきて大変賑わったという。
雅次さんが悔やんでも悔やみきれない酒蔵の火事は昭和五十年に起きた。酒蔵で火入れをした杜氏がそのまま出かけてしまい、気づいた時には火が蔵を包み込んでいたという。それから十年程、委託醸造の形で酒造りを続けた。
宮川家初代が、新潟から群馬に根を下ろしたのは江戸末期のこと。「火事がなければ今も酒造りをしていたでしょうね」と雅次さんの奥様も惜しむ。現在、宮川家では、玄関と控えの間で、代々伝わる骨董品や調度品、古文書などを訪問者に公開している。
紅葉の季節には中庭の楓を愛でながら、渡り廊下が手洗い所と裏の蔵へとつなぐ。焼け焦げた蔵の門には元禄の金具が残り、宮川さん夫妻の無念さを象徴しているかのようだった。
●宮川酒造店
箕郷町上芝106