高崎のたたずまい 3
珈琲の店 もりえ
創業者・藤木もりえさんがお店の名前に
田町の八間道路にその面影を残すかつての喫茶店。「珈琲の店 もりえ」。「雰囲気のいい喫茶店でね、片思いの女性をここに連れて来てほしいって20代の時、同期の男の子に頼まれたことがあったね」と“もりえ”での思い出を語る70代の女性。蔦に覆われたその建物は、大正2年築で100年超。創業者の孫に当たる藤木茂行さん(66歳)に中を案内してもらった。ガラス扉を開けると中二階と半地下の店内に煉瓦の壁が南北に伸びる。「建築家の父が満州で覚えてきたペチカ(ロシア式暖炉)。三層になっていて壁全体が温まり、真冬でも25度に。お客さんに止めてと言われても、急には止められない」と笑う。レトロなランプや家具は骨董趣味もあった父親のものだ。
「もりえ」は、昭和10年代初めに祖母の藤木もりえさんが創業した。「ラ・メーゾン」に次いで高崎で二件目の純喫茶で、コーヒー、あんみつ、トーストなどを提供。「歩兵十五連隊の人が休日になると押し寄せ、売り上げをミカン箱に投げ入れた」と伝え聞く。マッチ箱のデザインはロシアの民族衣装ルパシカを着た少年がカップを持ったイラストで、切り絵作家関口コオさんによるもの。店の一角に楽器屋が、ヴァイオリンやギターを並べていた時代もあった。「忙しいと私達子供がコーヒー豆を挽き、父は蝶ネクタイをして手伝った」という。高度経済成長前、喫茶店は憧れの洋風のたたずまいであった。
昭和30年代、映画『ここに泉あり』の撮影で電車通り(現田町通り)は、黒山の人だかりに。近くの工場勤めの人達は「すかやでそばを食べ、もりえでコーヒー」が昼休みのお決まりだった。「高校の先生達に“なんでここにいる”と怒られたこともある」と笑う。しかし徐々に客足が減り、昭和の終わり頃からは寛ぎ重視のリビング風に改装、その後時代の流れと共に店を閉じた。
大学生だった茂行さんが植えた一本の蔦は今や太い幹となり、枝先は隙間を見つけて店内へ伸びる。「思い出のある建物で勿体ないが、老朽化が激しい」。高崎市民がひと時の寛ぎを求めた「もりえ」。久方ぶりの客人を歓迎するかのように、蔦の葉が風に揺れた。
●珈琲の店 もりえ
高崎市田町