高崎のたたずまい 2
次世代に伝えたい大農家の温もり
赤城型養蚕農家―広瀬家
今もシジミが棲み、夏には蛍が舞うという用水路が敷地内を流れ、心地よい音を響かせている。「メダカもドジョウもいたし、ウナギも捕れた。たまのウナギはごちそうだったよ」と当時を懐かしむのは、100坪の大家に一人住む広瀬きんさん(90歳)。きんさんが嫁いだ当時、この家の住人は総勢13人の養蚕農家だった。きんさん達は、近くの丘陵地で摘んだ桑を背負っては、リヤカーで下ろしていた。広瀬家は霜が降りるまで年4、5回繭を採る百貫蚕の大農家だった。
明治35年建築の赤城型養蚕農家の母屋一階は、居住部と土間からなり、東側には馬小屋があり、庭先では水車が回っていた。二階の蚕室の上には、繭を作る蔟を広げる竹製の床がある。「蚕が桑を食べるザワザワという音が夜も響いてた。お腹がすくと蚕は首を持ち上げるんだよ」。寒さと湿度に弱い蚕は、火鉢で温め乾燥させるなど手が掛かる。できた繭は袋に詰め農協へ。「女工さんがたくさんいた時代。昔はくずの繭で機織りもしたらしいよ」。
玄関をくぐり土間が広がる一階の中心部には、敷地内の欅の木を使った漆塗りの大黒柱が立つ。「大っきな竈があって、お祖母さんがアッチッチと焼きもちを焼いてくれたねぇ」と目を細める。「風呂は桶に川の水を掻い込んで、雨が降ると傘さして入ってね。近所の人が、湯入りに行くべぇなんて来て、なかなか帰んない。私が入る頃にはぬるくなっちゃって、薪を燃して入るから大変だったよ」と笑う。
長男の嫁、節子さん(58歳)は「お義母さんの愛情いっぱいの家」で柿や栗、びわ、ざくろ、イチジク等々花と実のつく木々を一年中育てている。昨年10月、高崎市の特定歴史的景観建造物に認定された広瀬家。しかし、今冬の大雪で一部屋根が破損した。「老朽化も激しく修理が必要。この家を保存し地域の子どもたちに開放できたら」と節子さんは子ども支援のNPOと共に新しい活用法を模索している。
次世代に託された大家の行く末は、今こそ大切に扱う最後の時期なのかもしれない。