全国展開する家電総合商社
(2020年12月31日)
吉井電気株式会社
家電の総合卸商社として創業70周年
「コロナ禍の巣ごもり暮らしで、自社ブランドの小型冷凍庫や単身者向の調理家電、筋トレ器具などの売れ行きが好調です」と話す吉井透代表取締役社長。
吉井電気株式会社は、街の電気販売店、大型家電量販店、ホームセンターなど約2,500店舗を得意先に、年商200億円を売上げる家電総合卸商社だ。家電量販店の多店舗化に対応しながら営業エリアを拡大し、北海道から沖縄まで支店及び営業所14拠点を配置する。
「メーカーと販売店の橋渡しとして、信頼関係を築いてきました。今年70周年を迎えることができたのは、お客様の懐深く飛び込む泥臭い営業で、卸商社の存在意義を追求してきたからに他なりません」と話す。吉井透社長は父である2代目社長の急逝に伴い、30歳の若さで社長に就任し今年で5年目となる。
尊敬する業界の重鎮からもらった“感謝”と記入された名刺を携え、顧客先や取引先、従業員への感謝の気持ちを胸に刻んでいる。社内には祖父で創業者の吉井孝夫氏から受け継がれた創造性と開拓者精神が今も息づき事業推進の原動力となっている。
松下電器産業・松下電工の代理店としてスタート
同社は、昭和25年(1950)12月25日に成田町で創業した。当時、ラジオのほか電球や乾電池などがようやく世に出回り始めた頃。父親の経営する吉井製作所で、電気器具の販売に携わっていた孝夫氏が25歳のときに20代の従業員5名と事業を開始。当初は松下電器産業㈱および松下電工㈱の代理店としてスタートしたが、後に家電総合卸商社に転身、地域一番店をめざしてきた。
家電業界の歴史に目を向けると、昭和28年(1953)に白黒テレビが登場し、30年代半ばの皇太子殿下ご成婚の折には品切れ状態が続いた。さらにオリンピック景気の下で家電の「三種の神器」といわれた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が広く普及。その後、電気釜や掃除機などの小物家電が続々登場、40年代にはカラーテレビが登場した。
こうした家電市場の拡大期に売上を伸ばした同社は、業務拡張に伴い、昭和35年に旧17号線沿いの現在の社屋に移転した。孝夫氏の娘である吉井弘子会長は「会社のことが頭から離れない父にとって、物流環境の整備は最優先でした。当時小学生だった私は郊外ののんびりした土地柄に少々戸惑いましたが、住み込みの従業員とも仲良く賑やかに過ごしました」と当時を振り返る。
問屋が担う機能と役割とは
流通の中間に位置する問屋には重要な機能がある。例えば需要と供給を結び生産者と消費者の情報を双方に伝達する。生産者の商品をまとめて仕入れ代金を払うことで、継続的な商品製造を促す金融機能や、商品をメーカーから小売店に運ぶ物流機能。人気商品を取り揃えて小売店のニーズに対応するアソートメント機能や小売店を支援するリテールサポート機能等だ。
また、社会全体でみると複数のメーカーと複数の小売店の取引を問屋に集約することでコスト削減につながるという「取引総量最小化」のほか、メーカーの新製品を思い切って仕入れたりするなど、問屋が不確実さを受け止め調整する「不確実性のプール」という重要な役割も担っている。
「得意先や新規メーカーより、間に入って取引を進めてほしいと依頼されることもしばしばです。当社では会議室で商品説明会や社員研修会などを実施したり、メーカーの代わりに店舗に出向き商品の陳列を行ったりと、かゆいところに手の届く営業活動を展開しています。また、コロナ禍で品薄状態だった体温計の確保や、自然災害が多発した折にガスコンロなど災害時の必需品の備蓄が多方面で喜ばれました」と社会貢献面にも期待が寄せられている。
すきま商品の品揃えの強化
同社は初代吉井孝夫社長のトップダウンで始まった、「新しいもの」「おもしろいもの」「安いもの」をキーワードに新商品開発に熱心に取組んできた。その結果、専業メーカーの造る良質な商品と中小メーカーが造る安価な「すきま商品」の取扱いに定評があり、それが飛躍の要因になってきた。
ときには自社開発の商品を台湾や中国などの工場で生産することもある。「どんな不況の時でも売れる商品は必ずある」という初代の信念が社内に浸透している。そして、自社ブランド「Abitelax(アビテラックス)」には、同社肝いりの商品がラインナップされている。人々に愛される商品を調達し、消費者の下に届ける。3代目の新しい風を取込みながら、家電流通の真ん中で、泥臭く汗を流すことにプライドをもって事業に取り組む「ザ・問屋」の存在が輝いている。
吉井電気株式会社
代表取締役会長 吉井 弘子さん
代表取締役社長 吉井 透さん
高崎市飯塚町1649
TEL:027-362-0200
高崎商工会議所『商工たかさき』2020年12月号